青ちゃんのつれづれ日記  :Aochan

トップ       
青ちゃんのつれづれ日記  目次    VietnameseDictionary  ベトナムのページ
◆ ベトナム見聞記−1 ビザ不要だが… (#1,2004年9月16日)

ベトナムを訪れたのは2004年6月1日であった。私にとっては久しぶりの海外旅行である。1999年8月にロサンゼルスに行って以来の実に5年ぶりの海外である。

しかし、今回のベトナム訪問はいろいろな意味で収穫の多かった旅行であった。そこで、ベトナムで見聞きしたことをただつれづれなるままに記してみたい。


それにしても慌ただしい出発であった。現在、ベトナムはビザも要らないし、パスポートの期限も2ヶ月近く残っていたので、安心していた。


そこで早速JTBにハノイ直行便を予約しにいった。ところが、15日間を超えない滞在で、かつパスポートの期限が3ヶ月以上残っている事との条件付であった。

*ベトナムビザ ベトナム大使館


何と出発日10日前である。急いでパスポートの更新を行い、チケットを入手したのは5日前である。なんと慌ただしい出発であったことか!■

*ベトナム社会主義共和国【地図】 アセアン キッズ センター

 (つづく)




ハノイ市街を走るオートバイ



ハノイのお店





◆ベトナム見聞記−2 驚いたこと(1)・・・ (#2,2004年9月23日)

成田を出発したのが午前10:00で、ハノイのノイバイ国際空港に着いたのが現地時間で午後1:00過ぎであった。日本時間だと午後3:00過ぎである。時差が2時間ある。


知人とベトナムの青年(Mr. Pham Van Tra)が迎えに来てくれていた。このベトナムの青年を私達は、通称トラさんと呼んでいる。この青年にはベトナム滞在中、大変お世話になることになる。


私達は早速タクシーに乗り込み、ハノイ市街へと向かった。ノイバイ国際空港からハノイの市街地までは30分から40分ぐらいで到着する。


しかし、この30・40分の間、「ハラハラドキドキ」の連続であった。空港は郊外にあるので、途中までは舗装道路で片側2車線あり、まだ良かったのだが、それでも制限は無いのかと思うほど運転手はスピードを出すし、クランクションは鳴り放しである。


市街地に入るとこれがまた大変である。まず、オートバイが多いのに驚く。そのため、タクシーの左右両側はオートバイに囲まれた状態である。それから日本と違って、信号機が極めて少ないので、市街地にもかかわらず結構スピードを出している。しかも、抜きつ抜かれつの状態が続き、クランクションの音はあちこちから発せられる。


さらに、車線なんかはあって無いようなもので、オートバイは中央車線をはみ出すし、対向車もオートバイを避けようとして車線ギリギリまで出てくる。交通ルールなんてものがあるのかと疑いたくなる。これが、日本だと事故は多発し、ドライバー同士のいざこざも頻繁におこっているに違いない。


こうした状況の中で、私はタクシーの中で足を踏ん張った状態が続いた。ホテルに着いた時は、もうヘトヘトであった。ベトナムに来て驚きの第一歩である。この先が思いやられる。



繁華街を疾走するオートバイ



オートバイの女性



中央線ぎりぎりの対向車
◆ベトナム見聞記−3 驚いたこと(2)・・・ (#3,2004年9月30日)

ホテルに着いたのは、現地時間で午後2時を少しまわった頃である。まだ足がガクガクしていた。ホテルはハノイ市街にあるHoabinh Hotelである。

住所は 27 Ly Thuong Kiet Street, Hanoi, Vietnam
Tel:84-4-8253315、Fax:84-4-8269818
である。


早速、ホテルの受付カウンターでチェックインをする。このホテルは中位クラスらしい。外国人を対象にしたホテルはいっぱいあるらしいが、ベトナムの人に予約して頂いたので、値段の割にはなかなか立派なホテルであった。やはり旅をする時は、地元の人の紹介に限ると実感した。


部屋で一休みした後、ロビーカウンターで、円をベトナム通貨であるドンに両替してもらった。1万円紙幣を渡すと電卓をたたいた後、「135万ドンです」と言われ、紙幣を渡された。急に大金持ちになったような気がした。ただ、少し経って、渡した1万円札は少し破損していたので、担当者から1万円札をチェンジしてくれと言われた。どうも外国紙幣は真新しいものでないといけないらしい。


それにしても、ベトナムの物価が安いのには驚いた。ホテルも3泊4日朝食付で15,000円ぐらい、タクシーもちょっと乗ったぐらいだと100円以下ですむみたいだ。ベトナムの民族衣装であるアオザイ1着が800円弱で、1時間ぐらいで仕立ててくれる。聞いた話によると大卒の初任給が1万円前後(月給)らしい。外国人相手や観光客相手の店にいかなければ結構安くすむ。




Hoabinh Hotel の全景




ホテルのロビー



ホテルの部屋

◆ベトナム見聞記−4 驚いたこと(3)・・・ (#4,2004年10月7日)

翌日、朝の5時過ぎに目を覚まされた。なぜかと言うと、あのオートバイの絶え間ないクランクションの音が深い眠りから起こしてくれたのだった。きっとこの時間からベトナムの人の仕事が始まるのだろう。


8時になったので1階の食堂に行き、朝食をとることにした。朝食は、バイキング形式で、フォーや野菜、果物、ソーセージ、ハムなど豊富な品数が並んでいた。フォーは日本で言う「うどん」である。日本の「うどん」は小麦粉を麺にしているが、フォーはお米を麺にしたものである。この麺をスープにいれて、野菜とビーフまたはチキンをかけて食べるのである。私は鶏インフルエンザが怖かったので、ビーフにした。なかなかの美味である。


今日は海の桂林といわれているハロン湾に行くか、それともハノイ市内を見物するかで迷っていた。ハロン湾に行くと一日費やすので、ハノイ市内を見て回ろうと言うことになった。そこで、ベトナムの青年トラさんにどこが良いか聞いてみた。


結論として、ベトナムの英雄ホーチミン主席の遺体を安置しているホーチミン廟に行こうと言うことになった。


ホテルからタクシーに乗り、10分ぐらいでホーチミン廟に着いた。着いてみたところ、道路には長蛇の列である。廟に入るには1時間ぐらいかかるとの事である。列の最後尾に並び、少しずつ進むのを待った。


いよいよ入り口にさしかかった途端、手荷物を受付に預けなければならなくなる。カメラ、ビデオカメラ等の持ち込みが禁止されているらしい。さらに、安置場所に入る直前には、金属探知器のような門を潜らなければならない。ノイバイ国際空港の入出国審査より厳重である。また、衛兵があちこちで見張っており、列から離れたりすると注意される。
ホーチミン主席の遺体安置の部屋に入ると、部屋全体は薄暗く、遺体だけがスポットライトを浴びていた。遺体の周りには4人の衛兵が直立不動で立っていた。最初はロウ人形かと思ったぐらいである。


ハノイ市内では警察の姿はあまり見られないし、兵士などは全くみられない。それに比べるとこのホーチミン廟の厳重な警戒は驚くばかりである。



ホーチミン廟



ホーチミン主席の住んでた家



ホーチミン主席の生まれた家?
◆ベトナム見聞記−5 バッチャンにて・・・ (#5,2004年10月14日)

昼ご飯は、ベトナムの普通の人が行くフォーを食べさせてくれる店に行った。ここでまたフォーを食べたが、何回食べても飽きない。これはスープが薄口であっさりしているため、日本人の嗜好に合っているのだろう。ただ、このフォーは欧米人にも人気だそうである。


腹ごしらえをした後、ハノイ郊外にあるバッチャンへとタクシーで向かった。まだ、ベトナムの交通ルールには慣れていないので、タクシーの中では足を踏ん張ったままである。ハノイ市街からホン川を渡り、川沿いに沿って進むと、およそ30分でバッチャンに着いた。バッチャンはベトナム屈指の焼き物の産地である。


タクシーから降りると、いたるところに焼き物の店がある。目に入る店を片端から訪ねて見た。どの店にも多くの陶器が並べられている。しかし、店ごとに個性があるらしく、絵模様、形、色使い、焼き方など微妙に違っている。日本のように外国で大量に生産して、安く売るのとは明らかにに違っていた。


何件目かの店に入った時、コーヒーカップが目に入った。手に取って見るとなかなか良かったので、買うことにした。1個1ドルで、2個買ったので2ドルである。私はドルを持っていなかったので、ドンで払うことにした。ところがこの支払いが大変である。1ドンがだいたい0.007円であるから、2ドルだと31,430ドンぐらいである。この通貨単位に慣れないばかりか、どの紙幣を払って良いのかもわからない。結局トラさんに紙幣を渡し、払ってもらう。


また何件か店をまわったところで、今度は徳利とお猪口とお皿の3点セットが目にとまった。値段は4ドルとかかれてあった。早速店の人に3ドルにならないかと値切ってみたのだが、なかなか「Yes」とは言わない。そこで、お皿を小さいものに換えたりして、再交渉である。やっとのことで3ドルにしてもらった。日本だと1ドルぐらいどうでも良いと思うのだが、ベトナムの人にとっては、大変な額になるのだろう。日本人には「たかが1ドル」でも、ベトナムの人にとっては「されど1ドル」なのだろう。


バッチャンで買ったコーヒーカップと徳利など一式は、破損することなく、日本に持ち帰ることができた。そして、時々このカップでコーヒーや紅茶を飲んだり、徳利でお酒を飲んだりしている。ベトナムの風景を想い出しながら・・・



バッチャン村に行く途中



バッチャンのメインストリート



お店の人



*バッチャン焼 【画像】
◆ベトナム見聞記−6 今回の目的は(1)?・・・ (#6,2004年10月21日)

今までの掲載を読んでいると、観光目的でベトナムを訪れたように思われるだろう。しかし、今回の目的は違っていた。そもそもベトナムに行くきっかけとなったのは、ベトナムが国家プロジェクトとして、IT(情報技術)化を進めている事を耳にしたからである。


ベトナムは日本などのODA(政府開発援助)によって、開発を進めている。たまたま、知人がこれに拘わっていた。すでにハノイ郊外に、ホアラックハイテクパークとして敷地が確保され、管理棟はすでに完成している。今後はIT関連の研究所や企業、さらには大学なども誘致される予定だという。


日本のODAは建物を造ったり、道路や橋を建設したりするいわゆる箱ものの援助が多い。ところが、インフラを整備した後の管理・運営を行う「人の育成」については、割と無頓着な気がする。これは私だけが感じていることなのだろうか?


そこで、インフラが整った後は、技術者が必要になってくるのではないかと、ベトナムの人に提案したのである。特に、私たちが得意としている映像クリエイターの人材育成を提案した。箱ものだけの建設に終始するのではなく、教育に重点をおいた人材育成も必要なのではないかと説いたのである。つまり、「米百俵の精神」である。これこそがベトナムの将来の発展につながると考えたからである。


すでに、この映像クリエイター育成のためのスクールについての概要は、ベトナムの人たちにはメールで送っていた。そして、その内容については多くの人に興味をもって迎えられていた。内容は、3DCGデザイナー、デジタル映像編集、デジタル映像合成などのクリエイター育成を柱にしたものである。


ところが、私自身ベトナムには一度も行ったことがなかったので、その国民性、国情、生活、文化について何の知識もなかった。そこで、今後ベトナムの地においてこうしたスクールを展開するためには、一度は訪れておく必要があると感じたからである。決して観光のためにベトナムを訪れたのではなかったのだが......


 v6_1 ホアラックの見取り図


 v6_2 ホアラック全景の模型


 v6_3 ホアラックの管理棟


 v6_4 広大な敷地を一望


*IT人材およびホアラックハイテクパーク開発計画に係わるF/S調査報告書要約 三井物産

*ホアラック= 和楽= Hoa Lac

◆ベトナム見聞記−7 今回の目的は(2)?・・・ (#7,2004年10月28日)

ベトナムはITに関しては、インフラ整備の着手にやっと緒がついたという感じである。インターネットについても、その普及率はまだまだ低く、接続できるところでも電話回線での接続が殆どである。私たちの宿泊したホテルでもインターネットはつながらなかったため、ネットサーフィンやメールの送受信ができなかった。そのため、大変不便な思いをしたのを覚えている。


考えてみればベトナムは社会主義の国である。何かの本で読んだのだが、インターネットの接続については、社会主義のベトナムでは国家が規制しているという報告もあった。しかし、同じ社会主義の中国では、結構インターネットは盛んであるらしいので、ベトナムでも普及するのは時間の問題だと思う。


ところで、ベトナムは1986年に「ドイモイ政策」が採用され、改革・開放政策である。その大きな柱は市場経済の開放である。この「ドイモイ政策」については、順調だと言う人と順調でないと言う人とに分かれている。しかし、最近の経済成長率(GDP)は年7%台で確実に伸びているといえる。


話を戻すと、前回に掲載したホアラックを見学した後、ホアラックに勤務している人が、ベトナム国営放送(VTV)の広告代理店をしているVTAdを紹介するとのことで、そちらに直行した。


VTAdの社屋に到着し、一室に案内されると、挨拶・名刺交換をした後、クリエイター人材育成のスクールについての説明を始めた。ところが、先方はベトナム語で説明してくれるようにとの要望だったので、さあ大変である。とりあえず、私の知人が英語で説明し、ホアラックの人がベトナム語で通訳するといった、まわりくどい打合せとなった。おまけに私は日本語しか話せないため、時々日本語がまざったりして、長時間のプレゼンとなってしまった。


村山首相時代にVTV関係でODAが決まっており、すでに放送局の建設に着手しているとのことであった。また、放送機材も見積をとっているので、もう少しで発注業者を決定するとのことである。私たちに対しては、スクールの特徴をもう少し詳しく知りたいとの要望があったので、日本に帰って検討した後、連絡するということで、話し合いを終了した。


果たしてベトナムデジタルシネマスクールを実現できるのか? 今回ベトナムに来た目的は達成できるのか?.....



v7_1 TVAdの社屋



 v7_2 建築中の新しい放送局




v7_3  ミーティングの後の記念撮影


◆ベトナム見聞記−8 気がついたこと(1)・・・・ (#8,2004年11月4日)

ベトナムはS字状に南北に細長く延びた国である。日本の面積の約90%に相当するらしい。地形も面積も日本に似ている。人口は約8,000万人で、ベトナムの最大の都市はホーチミン市(旧サイゴン市)で、人口約510万〜530万人、次がハノイ市で約300万人である。ホーチミン市は商業都市であり、ハノイ市は政治と文化の都市と言われている。100万人を超える都市はこれぐらいで、あとは30万人前後の都市が多い。その他は農村地帯であり、農業人口が9割近くを占めているらしい。


ベトナムについては、私たちの若い頃、つまり高校生から大学生にかけてベトナム戦争として、新聞やTVニュースなどで知らされていた。また、当時は政治の季節といわれ、日本全国いや世界的に「若者の反乱」が席巻していた。日本でもベトナム反戦運動が活発で、若者を中心にして、この闘いは大いに盛り上がっていた。


このベトナム戦争も1975年には終息する。あの巨大な国アメリカに対して、小国ベトナムが勝ったのである。私は現時点では戦争でアメリカに勝った唯一の国がベトナムだと思っている。そして、当時はこのベトナムがなぜアメリカに勝てたのか不思議に思っていたし、この国に関心をもったのを憶えている。


ところで、日本でベトナム反戦運動の中心だった若者は、「団塊の世代」あるいは「全共闘の世代」といわれ、今では50代中盤から後半の年代に達している。この世代の人々は日本経済の高度成長の牽引力となり、最後には「バブル経済」の崩壊をもたらせたとも言われている。


ベトナムでは、日本で言う「団塊の世代」は、20代中半から後半に相当するらしい。というのは、ベトナム戦争終結後に生まれた人々が多いからである。つまり、1976年から1980年にかけての出生率が高いのである。


ベトナムの市場開放政策である「ドイモイ政策」は、最近になって軌道にのってきたとのことである。とすると、ベトナムでの「団塊の世代」が「ドイモイ政策」の牽引力になって来たのかも知れない。ただ、これらの世代の人々が、日本と同じ過ちを踏んでは欲しくない。いずれにしても、これから30年間がベトナムの経済発展の正念場となるのだろう。




V8_1   ハノイの高級住宅か?



v8_2   若い2人乗りのバイク




V8_3   まだ自転車も重要な交通手段

 
◆ベトナム見聞記−9 気がついたこと(2)・・・・ (#9,2004年11月11日)

ハノイ市内を歩いていると、若い人を多く見かける。特に、若い男女のカップルは目を引く。バイクに乗っている人、路地や大通りにたむろしている人の多くが20歳代である。ベトナムに来て、なぜこんなに若い人が多いのかと疑問に思っていたのだが、前回に記載した年齢構成を聞いて納得できた。今、ベトナムでは「団塊の世代」が20歳代だからである。


ベトナムの人達は、細身の人が多い。骨格も細く、身長も日本人よりやや低いぐらいである。顔立ちも日本人に似ている人が多い。ただ、ベトナムはすでに述べたように、S字状の南北に長い国である。そのため、ハノイなどの北部系の人々とホーチミンなどの南部系の人々とは、顔立ちが違うらしい。私はハノイしか訪れていないので、その辺のことは分からない。


このように日本人とベトナム人と体型的には、大差ないように感じたのだが、私だけの感じ方なのだろうか?


それにしても、ベトナムは蒸し暑かった。訪れたのは、6月1日から6月4日(成田には6/5早朝到着)だったが、日本で体験する8月のあの「むしむしした暑さ」にそっくりであった。この時期は雨期に相当するらしい。ベトナムを訪れるには、乾期あたる12月から3月の間が、最も良いとのことである。


この蒸し暑い中、ベトナムの若い女性の中には、長袖の服を着たり、バイクに乗る時は、顔一面にマスクをするか、タオルで覆っている人を見かけることが多い。最初は、排気ガスを避けるために顔を覆っているのかと思っていたが、よく聞いてみると日焼けを避けているためらしい。どこの国でも、女性は自分の美容には努力を惜しまないのだろう。



 v9_1   役所か住宅か?



v9_2   昔の日本でもこんな風景が!
 


v9_3   顔を覆う若い女性

◆ベトナム見聞記−10 気がついたこと(3)・・・・ (#10,2004年11月18日)

ベトナムを訪れていた間、食事はホアラックハイテクパークの人やベトナム政府の人と殆ど一緒にした。色々なところに連れて行かれたが、どこもハノイでは高級な部類に入る店らしい。


ベトナムの料理は、チキンと野菜が主である。また、先述したフォーが必ず出てくる。野菜は豊富にあり、かなり安いらしい。味付けは意外とさっぱりしていて、韓国料理のような辛さはなく、また、中国料理のようなしつこさもない。日本人の嗜好にあっているような気がする。

*フォー 【画像】


食べる時は、ナイフやフォークではない。だからといって、手づかみでもない。箸を中心に使って食べる。もちろん、ベトナムでも西洋料理が多く入ってきているので、その場合は、ナイフやフォークを使う。いずれにしても、ベトナムは「箸を使う食文化」に属していることに間違いはない。


ところで、箸を使うのは日本、朝鮮半島、中国、ベトナムと限られた地域である。世界的にみると、珍しい文化でもある。この箸は、中国から各地域に伝播していったのか、あるいは、逆なのか、私には分からない。いずれにしても日本には、どこかから入ってきたのだろう。


体型や食文化をみたりすると、日本人のルーツの一部にベトナムも含まれているのかも知れないと思った。柳田国男のいう「海上の道」を通じて、遠い昔から日本とベトナムはつながっていたような気がする。


ともあれ、箸を使う民族をみていくと、手先の器用な民族が多い。現代でもIT機器をつくる場合、細かい作業が必要とされる。そのため、このような作業を伴う「物づくり」には、これらの国々が欧米を凌駕しているほどである。また、ベトナムでは、陶器や刺繍などの工芸品が盛んにつくられているが、刺繍などを見てみるとなかなか見事なできばえである。アオザイを売っている店に行くと、あっという間に仕立ててしまう。このように、手先が器用な人が多いのだろう。


箸を使う民族である中国、韓国、台湾、日本などを見ていくと、いずれもアジアでは驚異的な経済発展を遂げた国である。とすれば、今後ベトナムも同様に経済成長を遂げる可能性は高いと言えるだろう。しかも、ベトナムの人は、勤勉なことでも有名であるので、なおさらである。



 v10_1  バイク販売店





v10_2  ベトナムの人と共に





v10_3  食後の一時


◆ベトナム見聞記−11 同世代について・・・・ (#11,2004年11月25日)

ベトナム戦争については、8回目のところで簡単に触れたが、今回はもう少し詳しく語ってみたい。どうしても私たちの世代は、ベトナムというと「ベトナム戦争」を思い出させるのである。


第2次世界大戦後、ベトナムは北緯17度線を境にして、北ベトナムと南ベトナムに分かれていた。北ベトナムは旧ソ連や中国を中心とした共産圏から支援を受け、一方、南ベトナムはアメリカを中心とした資本主義圏から支援を受けていた。つまり、共産圏対資本主義圏との代理戦争であった。


当時、ベトナムは第2次インドシナ戦争の真っ只中にあった。そして、このベトナムが共産化すれば東南アジアはドミノ倒し(日本で言う「将棋倒し」)のように、次々と共産化することは避けられないといった「ドミノ理論」をアメリカは戦争の理論付けとした。


アメリカは、10数年に及ぶこのベトナム戦争に20兆円(現在のレート)に近い巨費を投じた。しかし、1975年4月には北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線(通称、ベトコン)によって、サイゴン(現ホーチミン市)は陥落した。アメリカはベトナムから撤退し、ベトナム戦争の終結はした。そして、ベトナム戦争後に生まれた世代が30代に差しかかろうとしている。この事については、すでに触れたので、ここでは語らない。


私が関心を持っているのは、ベトナム戦争当時従軍し、アメリカと戦った世代である。日本では、「ベトナム反戦闘争」が盛んで、国際反戦デー、王子野戦病院反対闘争、ベ平連の各集会等々の「若者の反乱」が席巻していた。しかし、ベトナムの若者は深刻な戦争に直面していたのである。当然、アメリカの若者も同様であったに違いない。


ある夕食の時、私と同じぐらい年代の人にある事を尋ねてみた。あるは事とは、今までアメリカに戦争で勝った国は、ベトナムしか知らない。なぜ小国ベトナムが大国アメリカに勝てたのか?不思議でならなかったからである。


そこで、単刀直入に「なぜベトナムはアメリカに勝ったのですか?」と聞いてみた。すると一言「忍耐です」と言ったきり、あとは何も語らなかった。戦争で犠牲になった家族、友人、知人など多くの人がいるのだろう。そのため、この世代の人はベトナム戦争の事をあまり語りたくないのだろう、と私も察したので、話題を切り替えた。なお、ベトナム戦争でのベトナムの人々の犠牲者は、200万人を超えていると言われている。かつ、今でも枯葉剤などによる戦争の後遺症はあとを絶たない。戦争はいけない・・・・



v11_1    ベトナムの同世代の人



v11_2    町中をいくベトナムの人々



V11_3    父と娘?


  


  



  
◆ベトナム見聞記−12  交通ルールについて・・・・ (#12,2004年12月2日)

ハノイに3日間も滞在していると、滅茶苦茶だと思っていた交通ルールにもだんだん慣れてくる。日本では無秩序のように感じられる交通ルールは、ベトナムではベトナムのルールが存在しているようである。


中央線ギリギリまで対向車が迫ってくるが、対向車線をはみ出すことは滅多にない。例えはみ出したとしても、対向車とは一定の距離があり、それなりに安全が確認されているのだろう。


絶え間ないクランクションの音にもだいぶ慣れてきた。初めはクランクションを鳴らすことによって、「そこをどけよ!」とか「もっとスピードをあげろよ!」などと相手に注意を促しているものと思っていたが、そうではなかった。日本ではこれでよく喧嘩になることが多いが、ベトナムではこれによる争いはほとんど見られない。自分が目にしたところでは全くなかった。


むしろ、クランクションは「自分のバイクがこれから通るよ!」とか「これからそっちへ進むよ!」とかの意味を持っているらしい。決して相手を威嚇するためにクランクションを鳴らしているのでは無いようである。


ベトナム(ハノイ市)では信号機が少ないことは、すでに記したとおりである。だが、道路を横断する時は、大変である。右や左から絶え間なくバイクや車がやってくる。ずっと待っていると永遠に渡れない。どこかで勇気を出して、突っ切るしかない。後で聞いた話だが、道路を横断する時は、相手を見ない方が良いらしい。何故かというと、相手を見るとバイクや車が来ているのが分かっていると思い、歩行者を避けてくれないからだそうである。


と言うことから、ただ前を見て一直線に道路を横断するのが、良いのだそうだ。でもやはり、道路の横断には勇気がいるし、怖い・・・・・



 v12-1  交差点



v12-2  ハノイの信号機



   v12-3  道路を横断する人



◆ベトナム見聞記−13 ハノイの商店街・・・・ (#13,2004年12月9日)

ベトナムにいたのは結構短い時間だったが、ハノイ市内の商店街を見て回った。いろいろなお店に行くことができたが、そこで面白いなと感じたことが数多くあった。ただ、ベトナムへはショッピングツアーで行った訳ではないので、値段のことやブランド品などについては詳しくは分からない。


ハノイ市内は旧市街であっても区画がきっちりされている。その区画の中に同種類のものを販売する店がひしめいているといった感じである。例えば、衣料品であれば大通り沿い、または、通りを挟んで同じ店が並んでいる。電気街であれば家電を販売する店がその一帯を占めているのである。


私たちは、まず「日本のおみやげを買おう」と言うことで、何にするか検討した結果、「ベトナムのお茶(緑茶)にしようか」と言うことになった。早速、お茶などを売っている店が並んでいる一帯にタクシーをとばした。ベトナムでも2店しか売っていない(?)と言われているお茶を入手することができた。


次に、トラさんに「パソコンショップに行きたい」と言ったところ、カシオの電卓などを売っている所に連れて行ってくれた。本当はパソコンを売っている所に行きたかったのだが、トラさんになかなか通じない。ノートに書いたり、ジェスチャーで伝えたのだが、なかなか分かってくれない。最後に、「コンピュータショップにいきたい」と言ったところ、トラさんは「OK,OK」と言い、やっと分かってくれた。私たちは、ここでやっと気がついた。「パソコンショップ」では意味が通じなくて、「コンピュータショップ」だと意味が通じることを・・・


すでに述べたように、ハノイでは区画毎に同じ商店が並んでいる。そのため、目的の場所に行くには、タクシーで行くしかない。日本で言えば、新宿から秋葉原に行くようなものである。やっとの事で、パソコンショップに辿り着き、ベトナムの「パソコン事情」を垣間見ることができた。



   v13-1  ハノイの商店街



   v13-2  お茶を買ったお店



   v13-3  ハノイの電気街

◆ベトナム見聞記−14 ハノイの人々・・・・  (#14,2004年12月16日)

今回のベトナム訪問も終わりに近づいてきた。短い期間であったが、多くのベトナムの人に接する事ができ、良い経験をさせていただいた。また、この間毎日夕食は、ベトナムの人と一緒であった。


その中で感じたことは、ほとんどの人が穏和であると言うことである。話し方もゆっくりとした口調に聞こえて、穏和な感じを与えていた。隣国は大国中国であるが、中国の言葉は早口で、激しい口調に聞こえてならない。


そこで、私たち日本人同士でこの事について話し合った。「日本で言えば、中国の言葉は関西弁で、ベトナムの言葉は岡山弁かな」と言うことで話はまとまった。どちらの言葉が良くて、どちらの言葉が悪いというのではない。ただ、雰囲気として私たちはそのように感じただけである。


夜もたびたびハノイの街を歩き回った。歩き回ったというより、タクシーを乗り回したと言った方が良いかも知れない。夜の9時頃でも子供が家の回りで遊んだりしているが、金品をねだったり、物を売りつけたりする場面には一度も遭遇しなかった。声をかけると愛想良く振り返ったりする。何とピュアな子供たちだろうと感じたのを今でも思い出す。


そう言えば、一度だけ「絵はがき」を買わされそうになった。2日目の朝、ホテルの近くを散歩していると、「絵はがき」を持った男の人が近づいてきて、日本語で「いりませんか?」と言ってきた。私は「結構です」と言ったら、すぐに立ち去った。全く強引さは感じられなかった。これもベトナムの人の性格なのかなと思った。


ただ、最近の経済開放政策である「ドイモイ政策」によって、拝金主義に陥っている側面も指摘されている。特に、商業都市であるホーチミン市はその傾向が強いらしい。今後もベトナムの人々のピュアで穏和な性格が無くならないことを念じて已まない。



   v14-1  懐かしい風景



   v14-2  頭の上は何?



   v14-3  何を運んでるのかな?
ベトナム見聞記−15 終わりに・・・・ (#15,2004年12月23日)

4日間という短い滞在であったが、それにしてもあっという間に過ぎてしまった。ハノイ市という限られた地域に過ぎなかったが、ベトナムの人々と接し、周辺の景色を眺めたりすることによって、ベトナムについて垣間見ることができたと思う。本当の意味でベトナムを知った訳ではないが、知っていくきっかけになった事だけは事実である。


さて、帰りのフライトは、6月4日の現地時間23時55分である。当日は体調を崩したため、午前中はホテルで休んでいた。屹度暑さとベトナムの人との交流による緊張感から疲れが出たのであろう。それでも午後には大分回復したので、ホテルの近くのレストランで食事をすることとなった。もちろん、ベトナムの人も交えてである。


今回のベトナム滞在について色々と聞かれたが、その内容は忘れてしまった。ただ、「この短い期間でしたが、ベトナムの事が知れて楽しかった」と言ったような気がする。しかし、ベトナムの人から「ハノイを見ただけだと、本当のベトナムを知った事にはならないよ。ベトナムは農村人口が9割近くを占めているので、その農村を見ないとベトナムをトータルに理解できないよ」と言われた。それを聞いて、今度来た時は、沢木耕太郎ではないが、ホーチミン市から「1号線を北上」しようかと思った。


そろそろ出発の時間が近づいてきたので、レストランを後にして、ノイバイ国際空港に向かった。夜の9時を過ぎていたが、空港に向かう途中は若いカップルで溢れていた。街が若い人で一杯になるのは、活気があって良い。「若い」というのは良いもんだなとつくづく思った。


帰りの飛行機の中ではぐっすり眠ってしまい、あっという間に成田空港に着いた。日本時間で朝の7時頃である。空港からはリムジンバスで越谷市の自宅に帰った。1時間ちょっと乗っただけだが、バス代は3,000円であった。嗚呼、なんと日本は高いことか・・・・




   v15-1  ハノイの郊外
  


 v15-2  ハノイの市街



今回でベトナム見聞記は終了となります。2〜3回で「ネタ」もつきるのではないかと心配していましたが、意外にも15回も連載する事ができました。これも偏に桑原先生の後押しの賜と思っています。また、先生にはこうした掲載の機会を与えてくださり、大変感謝している次第です。


これに懲りず、新年からまた新しい連載をしたいと思います。テーマはビデオカメラの撮り方、編集の仕方などの「映像制作」になると思います。
青ちゃんのつれづれ日記  目次  Copyright(C)2004- Aochan    リンクはご自由に。ご連絡は無用です。このページの著作権は青ちゃんに帰属します。