ダーちゃん−タイ人の神霊観-についてです。
最近、わが家で働くようになった15歳のダーちゃんは、多くのお手伝いさんの例にもれず、東北タイの出身である。むっつり屋で,そそっかしい。しょっちゅうコップを割ったり、犬にえさをやるのを忘れる。
ダーちゃんは,こわがり屋でピー<お化け,神>を信じている。暗いところがきらいで、自分の部屋でねることもできないので、もう一人のお手伝いさんと一緒の部屋にねる。テレビでこわい映画を見た晩などは、もう一人のお手伝いさんのベッドにもぐり込んでしまう。このダーちゃんにとっては、わけのわからないものやことがらは、すべてピーのなすわざなのである。
ある朝、あまり眠そうな顔をしているので、「寒くてねむれなかったの?」とたずねたところ,「お化けに踏んづけられた」とのこと。つまり金縛りにあったのだ。タイ語では、「しびれる」ことは、「ネップというものが足を食べる」とあらわす。「けいれん」は「タキウというものが足をつかまえる」のである。「虹がでている」ことは「ルン(竜)が水をのんでいる」という。
ダーちゃんに限らず、一般のタイ人は、原因不明の天変地異や事象をカミや霊のしわざとする傾向が大であり、また人のなせるわざであっても、それを自然現象として表現することが多い。
ピーが私の頭を痛くしている?
ところで、タイ語では「頭がよい」、「目が大きい」とかの語順は、「ホワ・ディー(頭・良)」、「ター・ヤイ(目・大)」というふうに、日本語と同様である。
ところが、頭や脚が痛かったり、だるかったりすると、この場合だけ語順が倒置する。「頭がいたい」は、「プアト・ホア(痛・頭)」、「脚がだるい」は(だるい・脚)となる。この場合の倒置理由については、タイ人自身明確な説明をしておらず、外国人はそういうものとして記憶、使用するほかない。
しかしながら、タイ人がピーを信じるにあつい人間であり、またタイ語は日本語と同様、既知、了解ずみの主語を頻繁に省く言語であることを考えると、「痛」の前に何か主語が省略され、本来は「○・痛・頭」の語順であったとみなすこともできる。つまり、「痛」は「痛い」でなく「痛くする」という意味であり、「○・痛・頭」は「(原因不明の何かが)私の頭を痛くしている」ともとりうる。
このように解釈すれば、ダーちゃんがおなかをおさえて「チェップ・トーン(痛・腹)」といったとき、それは「ピーがおなかで、あばれ、おなかを痛くしている」ということを意味し、彼女が薬を信じず、あまり使いたがらないわけがわかる。
ピーがおみやげの提供者
むっつり屋のダーちゃんは,わが家に初めてきたとき,一度あいさつしただけで、その後、朝晩の挨拶などもしたことがなく、たまに家内がおみやげを買ってきてあげてもお礼を言ったことがない。ニコッと、あるいはニヤリとほほえむだけである。
挨拶やお礼は心でするもので、口にだせばそれだけ親愛や感謝の気持がうすれるとでも考えているかのようである。あるいは、おみやげの提供者は、ピー(神さん)であり、家内はさしずめその運搬者であるのかも知れない。
ダーちゃんにとっては、持てる人がない人にあげるのはピーの命ずるところによるものであって、したがってピーには感謝するが、人間には、「コープ・クン(ありがとう)」をいわなくてもよいのだろうか。
でも、悪いことをすると、ピーがいじめるので、人がみていないところでも、よいことをしようと心掛ける。ダーちゃんにとっては、ピーなしには社会のしくみはわからない。ダーちゃんは、コップやお皿をよく割る。割ってから、ニヤッと笑うだけで、「コートート(ごめんなさい)」は、決していわない。
コップを割ったのもピー?
日本語では、コップはふとしたはずみで「割ってしまう」もので、「割れてしまう」ものではない。が、ダーちゃんにとっては、ピーのせいで「割れる」ものである。「割る」場合は、主体はあくまで人間であるが、「割れる」場合はコップが主体であり、そこには人間が介在しない。あるいは「割った」場合でも、それはピーが割ったので、自分ではないのだ。したがってコップが割れた場合でも、あやまる必要がないのだろうか。そう考えると、ダーちゃんがいとおしくなってくる。
(Source:桑原政則「アジアのこころ タイ コートート(ごめんなさい)」
『朝日アジア レビュー』1975.1)