コラム:岩手県を歩く

(2006年5月21日)

2006年5月14日、15日に岩手県最南端の一関(いちのせき)市、一関の中の花泉、平泉を歩きました。一関市は北トーホクの玄関です。新鮮な体験が多く「岩手県を歩く」の原稿が30本ほどできあがりました。

帰りの新幹線「はやて」の車中で「岩手県を歩く」のまえに東北全体を図解化する必要があると判断し、早速実行することにしました。「はやて」は一関から大宮までは2時間かからず、東北の近さをあらためて体感しました。「はやて(疾風)」は、2002年東北新幹線が青森県の八戸(はちのへ)まで延伸したのを記念に、「は」の語呂合わせで「はやて」と名付けられたようです。【「はやて」→「はちのへ」】

岩手県を歩く

目次

  1. 日本地図(都道府県別) [別ウインドウへ]
  2. 北前船(きたまえぶね)はなぜ日本海を通った?
  3. 東北6県の位置地図 [別ウインドウへ]
  4. 北トーホクの地形:出羽山地、奥羽山脈、北上高地 [別ウインドウへ]
  5. 奥羽とは、陸奥+出羽のこと [別ウインドウへ]
  6. 岩手県の大動脈 北上川
  7. 岩手県一関、花泉の旅程表
  8. 芭蕉の『奥の細道』は『手前の細道』
  9. 西行の旅は藤原氏から大仏の金箔を寄進してもらうため
  10. 岩手県の5地域:県北、盛岡、県央、県南、沿岸 [別ウインドウへ]
  11. トーホクの3大受難:その1 謀殺されたアテルイ
  12. トーホクの3大受難:その2 奥州藤原氏の滅亡
  13. トーホクの3大受難:その3 奥羽越列藩同盟以来の冷遇
  14. 中尊寺の金色堂→マルコポーロ→コロンブスのアメリカ発見 :平泉町
  15. 金売吉次(かねうりきちじ)の黄金伝説
  16. 藩都を県名にできなかったトーホク
  17. 義経も泊まった栗原寺(りつげんじ) :宮城県栗原市
  18. 有壁本陣は義経の家来 佐藤継信の嫡流:宮城県栗原市
  19. 義経の政治音痴でなしえた頼朝の覇業
  20. 2007年4月廃止のくりはら田園鉄道
  21. こんなナンバープレート、あ〜り〜!?:55−66 77−88 :宮城県栗原市
  22. 安重根と千葉十七(としち)の供養碑。斎藤実(まこと) :宮城県栗原市
  23. 大槻三賢人の一関(いちのせき)市
  24. 「花と泉の公園」の一関市花泉町
  25. 宮沢賢治一色の花巻(はなまき)市
  26. 物の豊かさより、心のしあわせを 花巻市 [別ウインドウへ]
  27. 日露戦争を早期終結に導いた新渡戸稲造の『武士道』
  28. 新渡戸稲造の影響で農業経済学に進んだ李登輝
  29. 原敬(はらたかし)に由来するわんこそば 盛岡市
  30. 25歳で地方分権をとなえた原敬
  31. 野村胡堂の別名は「あらえびす」
  32. 戦後日本の学童を給食で救った浅野七之助
  33. 小笠原満男も育てた盛岡商の斉藤監督

【注】論文ではありませんので、煩を厭って明記はしませんでしたが、司馬遼太郎の諸著作を参考、補助線にしました。記して感謝します。

 

日本地図(都道府県別) [別ウインドウへ]

芭蕉の『奥の細道』は『手前の細道』

(2006年7月)

  • 『奥の細道』行程図

    『奥の細道』行程図
  • 『奥の細道』は北トーホク人からみれば、北トーホクのほんの玄関をなぞっただけで、『手前の細道』のようなものです。青森は射程に入っていませんし、岩手、秋田も玄関口だけを訪れているからです。
  • しかし、松尾芭蕉(1644-94)の頃は万里の果てを旅するような一大事でした。ましてや観光旅行ではなく、修験者のような旅ですから命がけでした。
  • 芭蕉は文学や遊芸を好む津藩の藤堂(とうどう)家に仕えました。わたしは三重県の津で高1のとき松尾芭蕉の『奥の細道』に出会いました。三重県の津は関西圏に属し、トーホクはシベリアのような漠北の地でした。関西人にとっては、埼玉以北は「ありません」でした。東京の北は飛行機で行く北海道です。今でも関西人は赤羽やさいたま市にまず住みません。逆に、トーホク人は「給料を倍もらっても大阪には行きたくない」のです。住居を横須賀や湘南に構えることは考えられません。
  • 芭蕉は29歳の時江戸に下りました。深川のほとりに転居したとき、芭蕉の株を贈られ俳号を芭蕉としました。39歳の時、芭蕉庵が火事にあい、そのときから生涯を行脚(あんぎゃ)することにしました。
  • 1689年に曾良(そら)を伴って、150日間をついやして、西行の跡をしたい歌枕(和歌にうたわれた名所旧跡)をめぐる旅に出ました。見送ってくれる江戸の旧知を思いながらうたいました。晩年の46歳の時でした。

    《 行く春や 鳥啼き 魚の目は涙》

    (春が去っていくように自分も江戸を去って行きますが、名残惜しそうに鳥は啼き、魚の目にも涙があふれている。)
  • 福島県最南端の白河の関を超えるとき、うたいました。

    《風流の初めや 奥の田植え歌 》

    (風流の最初のものに接したなー、奥の田植え歌を聞いて。尊敬する西行法師も500年前にこの関を超え奥羽にはいるということで、緊張したことであろうな。奥羽こそ詩歌がはじまるところなんだ。ここを旅してわたしも自分の文学を命がけで完成させるんだ。)
  • 義経(1159−1189)は1189年人生の幕を閉じました。ぴったり500年後の1689年に、芭蕉は平泉を訪れました。

    《夏草や  兵(つわもの)どもが 夢の跡 》

    (いまは夏草が生い茂っているこのあたりも昔は、義経や武士たちが、栄華功名を夢見てたたかったところなんだなー。)

【『奥の細道』の書き出し】

「月日は百代の過客(かかく)にて、行きかふ年もまた旅人なり。」

(月日というものは、ずうーとずうーと100代にもわたって、旅を続けている人のようなものであり、行く年来る年もまた旅人のようなものである。)

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

《 夏草や  兵(つわもの)どもが 夢の跡 》平泉の毛越寺(もうつじ)

義経堂から見た衣川(ころもがわ)

義経堂から見た衣川(ころもがわ)。弁慶が仁王立ちになったまま息絶えた場所です。

義経堂

高舘(たかだち)の丘の義経堂

西行の旅は藤原氏から大仏の金箔を寄進してもらうため

(2006年7月)

  • 芭蕉が自己の文学を完成させるため、一代の事業として『奥の細道』の旅をしたのは、500年前の西行の跡を慕い、歌枕の地をたずねるためでした。西行(1118−1190)は『山家集』をあらわしました。『新古今集』には最多の94首が選ばれています。73歳まで漂白の人生を送りました。
  • 西行の遠祖は藤原です。母は源氏の血を引いていました。左兵衛尉(さひょうえのじょう)というきらびやかな役職でした。「左」兵衛尉(さひょうえのじょう)の「藤」原ということで、「左藤→佐藤」と名乗るようになりました。
  • 西行(佐藤義清 のりきよ)は、宮廷の北面を警護する北面の武士として鳥羽上皇につかえました。鳥羽上皇の夫人にかなわぬ恋をし、23歳で妻と娘、人のうらやむような官職財産を捨てて出家しました。西行を慕い、鳥羽上皇の夫人も西行の妻も娘も出家しました。
  • 西行は、武芸の達者で家には世襲の荘園がありました。宮廷人とも社交をし、平家一門とも親しく、源氏の頼朝とも親しく、頼朝の屋敷に泊まり弓馬について話をしたこともあります。また当時の第3勢力であった奥州の藤原秀衡とも懇意にしました。佐藤家は、奥州藤原氏とも祖先を同じくしていました。西行は2度奥羽の地を旅しました。晩年の旅は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にも記されています。
  • 源平争乱(1180−1189)で東大寺は焼け、大仏も溶け崩れました。在野の僧侶はお寺の再建にはげみ、伽藍を再建し、大仏も鋳造しました。このあと必要なことは金箔を塗ることでした。この時代金の産地は藤原氏がおさめており、奥州の藤原氏に黄金の寄進を求めるのに、藤原氏と親交がある西行が活躍したといわれています。西行の奥州への2度目の旅は、金を求める旅でもありました。
  • 西行は辞世の句の通り2月の花と満月の頃死にました。

    《願わくは 花のもとにて 春死なん その如月の 望月のころ 》

    ( どうせなら、花盛りの桜のもとで死にたいなー、2月の満月の頃。お釈迦さまと同じように。)

    芭蕉の辞世の句

    《 「旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る」》

    は、師西行を模したものでしょうか。共に漂泊の旅の途上での死を望んでいたようです。芭蕉は西行と時空を超える邂逅(かいこう)をしたようです。
  • 西行物語<挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 京都大学

    西行 ウィキペディア

    西行 ウィキクォート

 

北前船(きたまえぶね)はなぜ日本海を通った?

(2006年6月10日)

  • 対馬海流のルート
  • 北前船のルートは、大阪→瀬戸内海→関門海峡→北陸(越前、加賀)→北海道の松前(函館近辺)でした。対馬海流は、海の中を小走りぐらいのスピードで走っています。北前船は1900年頃(明治30年代)に鉄道網が形成されるまでつづきました。
  • 1609年家康は、船は500石積み以下とすることと決めました。マストは1本だけにし、甲板(かんぱん)は禁止でした。船を甲板でふたをして沈まないようにすることは許されませんでした。その前の時代には、複数のマストをもった多帆船(たはんせん)が南方へ遠洋航海していました。家康の禁令により、波の荒い太平洋岸の航海は不可能になりました。
  • 秋田県や青森県の津軽側では暖かい対馬海流のおかげで、物成りは豊かでした。
  • しかし、岩手県側には、寒流の親潮が南流しており、稲作には向いていませんでした。太平洋側では、冷たく湿った北東風のやませ(山背)のため、雲や霧が発生し、日照時間が少なくなり、気温も低くなり、凶作、飢饉をおこしました。ある時代には3年に1度の飢饉がありました。(「やませ」は山を背にして吹く風ではなく、闇風(やみかぜ)からの転化といわれています。)
  • 米=貨幣=信仰でしたから、米のとれない南部藩は貧しくわずか10万石にすぎませんでした。(伊達藩は実質200万石でした。)司馬遼太郎は、古代の日本に食肉の習慣があれば、飛鳥走獣の豊かな南部藩はデンマークのように繁栄したであろうといっています。
    北前船 石川県庁

 

東北6県の位置地図 [別ウインドウへ]

北トーホクの地形:出羽山地、奥羽山脈、北上高地 [別ウインドウへ]

奥羽とは、陸奥+出羽のこと [別ウインドウへ]

岩手県の大動脈 北上川

(2006年7月)

《 やはらかに柳あをめる   北上の岸辺 目に見ゆ   泣けとごとくに  》

(やわらかに柳の芽が青く色づいた北上川の岸辺が目に浮かぶ。まるで「ふるさとがなつかしいだろう、泣きなさい」とささやいているようだ。)

石川啄木の望郷の歌のナンバーワンです。20歳の時、北海道へ漂泊の旅出る最後の日記に記されている歌です。啄木は北上川の白波やせせらぎ、岩手山の雪肌を思い浮かべては、ふるさとを思い出していました。この地方の人は啄木と北上川への思いを共有しています。

  • 岩手県最南端部の北上川、一関市花泉

    岩手県最南端部の北上川、一関市花泉

    カスリーン、アイオン台風の水位、一関市

    カスリーン、アイオン台風の水位、一関市
  • 北上川は、左に奥羽山脈、右に北上山地を従え、岩手県の中央部を北から南へ縦断して流れています。県の北端を源流とし、盛岡市をうるおし、花巻市では流域を大きくひろげ、北上市、奥州市、平泉町、一関市(いちのせきし)を通っています。東北本線は北上川に沿って走っています。
    北トーホクの地形:出羽山地、奥羽山脈、北上高地 桑原政則
    北上川流域の市町村 【画像】
    (岩手県の主要都市は北上川流域にあり、海岸部とは北上高地によって隔てられているため、太平洋岸とは交流がなく別世界のようです。)
  • 北上川は一関市から東にそれ、すぐ南流し、宮城県北部の穀倉地帯である仙北平野をうるおし、石巻(いしのまき)方面で太平洋にそそぎます。
  • 岩手県最南端の一関市(いちのせきし)は、北上川がもっとも狭まるところにあります。このため地名は「一の堰」に由来するともいわれています。1947年のカスリーン台風では北上川が暴れ、翌年のアイオン台風とあわせて死者約600名をだし、一関の心臓部を完全に破壊しました。このため官庁などが引っ越すことになりました。
    カスリーン台風 1947年
    アイオン台風 1948年

  • いわての川 岩手県
  • 国土交通省 岩手河川国道事務所

     

    岩手県一関、花泉の旅程表

    (2006年6月)

    岩手県一関、花泉日程表 2006年5月14、15日  

    2006年5月14日

    [自宅]―[一関]―[宮城県栗原市金成(かんなり)]―[岩手県平泉町]―[平泉町のホテル武蔵坊泊]

    • 自宅 5:00
    • 霞ヶ関駅 5:33 → (東上線 7分)→ 川越駅5:40
    • JR川越駅 5:55 → (埼京線 20分)→ 大宮駅6:15
    • 大宮駅 6:30 → (新幹線)→ 一関駅8:36
    • 一関 8:45 → (バス)→ 金成(かんなり)9:15
    • 栗原市金成にて3時間
      常福寺:炭焼き藤太の墓、金売り吉次
      栗原寺(りつげんじ):義経、吉次の泊まった寺
      (栗原市観光協会長 浅野一志氏同行)
    • 金成(かんなり)13時頃 → (車)→ 平泉町13時半頃
    • 平泉にて5時間
      毛越寺(もうつじ) 南洞(なんとう)貫首訪問
      毛越寺
      中尊寺
      高館(たかだち)
      ホテル武蔵坊泊 0191−46−2241

    【注】市名は一関(いちのせき)、駅名は一ノ関

    2006年5月15日

    [平泉]―[一関市花泉]―[一関]―[自宅]

    • 平泉駅 8:42 → (東北本線  8分)→ 一ノ関駅8:51
    • 一ノ関駅 9:03 → (東北本線 13分) → 花泉駅9:16
    • 花泉にて3時間
      花泉支所産業経済課
      ハナイズミモリウシ
      花と泉の公園、牡丹園
    • 花泉13時頃 → (タクシー) → 一関市
      (途中)有壁宿本陣
    • 一関市にて4時間
      一関市役所商工労働部商業観光課
      岩手日報
      一関の名所
    • 一ノ関駅 17:24 → (新幹線 1時間46分)→ 大宮駅19:10
    • 大宮駅 19:22 → (埼京線 20分) → 川越駅 19:41
    • 川越駅 19:46 → (東上線 5分) → 霞ヶ関駅 19:50
    【旅のメモ】
    • 【指針】「いつもスマイル。人には譲る」
    • 宮城県栗原市金成(かんなり)→ 岩手県の平泉→ 一関(いちのせき)市花泉地区の旅程です。
    • この旅程を、駅の旅行ガイドセンター(ガイドマップなどを入手)、観光協会、現地の人などの情報を参考に、現地でさらに修正したものを、目安にします。この旅程表をポケットにいれて行動を照合します。
    • 博物館は地元の歴史文化の缶詰です。じっくり時間をとります。1回2〜4時間かかりますので、体力をつけておく必要があります。
    • スーパーには土地土地の特徴があり、勉強になります。
    • 本屋さんの郷土本のコーナーも参考になります。
    • タクシーに積極的に乗って、運転手さんから景気や土地の情報をお聞きします。
    • 時間があれば、市町村役場にうかがって、お話を聞きます。(花泉支所では、車でマチを案内していただきました。一関市役所からは、後日入手しがたい貴重な資料をたくさんお送りいただきました。)
    • ホテルでタウンマップをいただき、名所、ショッピングセンター、名所などをうかがいます。
    • メモを宿で清書します。これが旅の資料となります。旅の目的はここにあります。8×12センチのメモ帳を用意しますが、1泊の旅でほぼ使い切ります。
    • メモを清書し終わったら、夕食代わりに居酒屋にでかけ、マスターから土地の情報をお聞きします。由緒ある店構えのところでは、商工会などの会員になっているので、マチにくわしいです。居酒屋には、早めに入ります。
    • 早起きし、前日のことをさらに敷衍(ふえん)し、当日の予定を確認します。地元のテレビ、新聞も情報源となります。早速、メモメモメモがはじまります。
    • 旅のモットーは、「いつもスマイル。人には譲る」です。 これをメモ用紙の裏に記しておきます。
    • 旅から帰ると、ルーティンワークがたまっています。さらに旅のメモを「○○を歩く」に仕上げる仕事が待っています。たとえ一泊の旅でも、今度のように30本もコラムのタイトルがが湧いてくるフカーイところは、書籍資料の読み込み、ホームページへの完成に半年はかかります。

     

    芭蕉の『奥の細道』は『手前の細道』

    岩手県の5地域:県北、盛岡、県央、県南、沿岸 [別ウインドウへ]

    トーホクの3大受難:その1 謀殺されたアテルイ

    (2006年5月24日)

    • 大和政権は、古代トーホク人を米を作らなかったというだけで、蝦夷(えみし)と名付け、凶悪な異民族としました。蝦夷(えみし)はかつて関東にもいましたが、農耕を営む弥生人によって北へ押し上げられたようです。朝廷軍は蝦夷(えみし)を何回も征服しようとしましたが、撃退されていました。789年にも朝廷軍はアテルイ軍に破れ1000人以上の死者を出しました。
      アテルイ 【画像】
    • 802年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は大規模な遠征をおこない勝利をあげました。水沢に胆沢城(いさわじょう)を築きました。降伏したアテルイは田村麻呂に伴われて、平安京に入りましたが公家に謀殺されました。
      岩手県市町村地図 水沢区は一関市のすぐ北の奥州市にあります。小沢一郎の出身地です。
      奥州市の位置地図
    • アテルイは中央からは賊徒とされていますが、トーホクの英雄アテルイは大きく見直される日がくるはずです。ましていまは地方分権の時代です。アテルイの復権が望まれます。(一ノ関でたずねてもわびしいローカル線のアテルイ号について知っている人はほとんどいませんでした。)

    アテルイ

    アテルイ号はローカル線でほそぼそと

    田村町郵便局

    一関市田村町郵便局。征服者「田村」を好まない人も

     

    トーホクの3大受難:その2 奥州藤原氏の滅亡

    (2006年5月27日)

    • 平家を討伐した頼朝は、義経追討に名を借りて、1189年28万の大軍を率いて、奥州に攻め入り奥州全域を鎌倉のものにした。 これにより、藤原氏3代清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の100年の栄華も消え去り、奥州には地方政権は二度とあらわれません。 奥州藤原氏の栄華は北上川の砂金で築いたものといわれます。
      奥州藤原氏 ウィキペディア
      奥州藤原氏 【画像】Google
    • 奥州藤原氏の解体により、封建的主従関係に基づく鎌倉政権が生まれ、古代から中世へ時代が転換しました。

     

    奥州藤原氏の舞台であった平泉町は、2008年に世界遺産に登録されるはずです。

    毛越寺

    朝まだきの毛越寺(もうつじ)。岩手県平泉町。「早起きは山門の徳」とも。

    南洞(なんとう)貫主

    毛越寺(もうつじ)の南洞(なんとう)貫主。

    近隣17寺の代表です。ご自宅で1時間ほどお話しをうかがいました。基衡(もとひら)公の850年忌を終えたばかりでした。南洞(なんとう)という姓は岩手県にはなく、はるか昔にご先祖の公家がミヤコからいらっしゃのでしょう。戦争前は実家が大地主でした。

    基衡(もとひら)公の850年忌を毛越寺南洞(なんとう)貫主・中尊寺千田貫主が合同法要 岩手日報。2006年4月17日。

    南洞貫首19歳

    19歳で教員になり、半年後海軍に召集されました。そのころの教え子が75歳です。南洞頼教(なんとう よりのり)ですが、生徒たちは「頼教」から「らっきょう」とよんでいました。(75歳の教え子の岩淵氏談)

     

     

    中尊寺の金色堂→マルコポーロ→コロンブスのアメリカ発見

    (2006年6月8日)

    • 奥州藤原氏は砂金4トンもだして宋から『一切経』7000余巻を購入しました。マルコポーロはこのことも耳にしたのでしょう。『東方見聞録』で日本の宮殿、おそらくは中尊寺の金色堂(こんじきどう)についてのべています。

      「住民は色白で、礼節正しい優雅な仏教徒である。宮殿は屋根も床も黄金でできている。国人はだれでも莫大な黄金を所有している。」
    • コロンブスが航海に乗り出しアメリカを発見したのは、マルコポーロの『東方見聞録』に触発されたからでした。
    • 奥州藤原氏は頼朝に攻められて1189年に滅びます。松尾芭蕉は、ちょうど500年後の1689年「奥の細道」の旅に出、平泉では金色堂(こんじきどう)を詠みました。

      《五月雨(さみだれ)の 降り残してや 光堂(ひかりどう)》

      (しとしと降る五月雨も、光堂には、その気高さに気おされてか、おとなうことをはばかっているようです。)

      金色堂 【画像】
      奥州藤原氏年表

     

    • タイ語で日本を「ジープン」といいます。福建省の泉州は、マルコポーロのころには、中国最大の貿易港、海のシルクロードの出発点として繁栄しました。マルコポーロはここでジパングを知り、1292年ここから帰国の途につきました。福建語では、日本を「ジップン」と発音します。「ジップン」から「ジパング」「ジャパン」「ニッポン」、タイ語の「ジープン」が生まれたと思われます。
      台湾の歴史と展望:李登輝を中心として  桑原政則(160kで重いです。Wordで50ページ。  2002−10 加筆)  
      福建省の泉州 【地図】台湾の向かいです。

    中尊寺

    中尊寺 の月見坂

    中尊寺は、初代清衡(きよひら)が前9年、後3年の合戦で亡くなった人の例を慰めるために造営しました。
    平泉の文化遺産 平泉町
    清衡の平和思想 今も 岩手日報

    2008年には世界遺産に登録される予定です。平泉町 は、マルコポーロやコロンブスとも関係づければ、外国人ツーリストの関心はさらに高まることになるでしょう。

     

    トーホクの3大受難:その3 奥羽越列藩同盟以来の冷遇

    (2006年5月30日)

    • 長州は会津から痛い目にあわされました。幕府の命令で京都の治安を担当した会津藩にねらわれ、1864年の蛤御門の戦いでは京から追い出されました。会津藩配下の新撰組にもつけねらわれました。
    • 1868年維新政府は東北諸藩に会津征討を命じました。諸藩は会津を救うために嘆願書を出しましたが、却下されたので、東北25藩と長岡藩など6藩は奥羽越列藩同盟を結成し闘いましたが、破れました。
    • のちに仙台と米沢は戦いが不利と見るや、列藩の主導者でありながら、薩長へ寝返ります。南部は仙台への義理で加盟しただけなのに、会津と共に最大の被害者に仕立て上げられ、貧窮の道を歩まされました。
      奥羽越列藩同盟 ウィキペディア
    • この戊辰戦争で会津を破った長州人は傲岸にも「白河以北、一山百文」と言い放ちました。明治政府はトーホクを無視し続けました。トーホクを飛び越えて北海道開拓に意欲を燃やし、トーホクを無視し朝鮮経営に乗り出し、さらに日本のトーホクではなく中国の東北の経営に乗り出しました。
    • 政府がトーホクのためにしたことは、東北大学をつくっただけでした。 (原敬は、トーホクを侮蔑嘲笑した薩長出身者への反発から号を「一山」と称しました。設立が絶望的だった東北大学が日の目を見たのは、内務大臣だった原敬の尽力によるものでした。)
    • 南部藩は青森県と岩手県に、伊達藩は宮城県と岩手県に分断されました。このいやがらせのために、岩手県は南部藩と伊達藩の両方をかかえ込み、今に至るも分断政治の犠牲になっています。 (本来ならば、八戸を含めた南部藩を引き継ぎ盛岡県となるはずでした。)
    • 南部藩域と伊達藩域は歴史文化ことばの面でほぼ異国状態です。南部藩のもてなし料理は蕎麦、お茶うけはセンベイで人はぼくとつです。伊達藩は餅でもてなし、羊羹をお茶うけにし、人は大風呂敷といわれています。
    • 政府が青森、山形、新潟を通る日本海新幹線をつくらないのも、日本海高速道路をつくらないのも、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)へのうらみがきのうのことだからのような気がします。(太平洋側の新幹線は北海道への経路として建設されました。)

     

    • 北上市は、伊達藩と南部藩の境界で、両者の密やかな交流の場でした。北上市相去(あいさり)とは、両者が私的に「会って去る」ことから名づけられたといわれています。
      岩手県市町村地図
    • 岩手県では「ナンブ」をよく耳にしますが、「ナンブ」は旧南部藩のことで、北部にあります。
    • 青森の八戸市、十和田市を含む南部地域ではいまだに新聞、テレビなど岩手ものを好みます。

    岩手県

     

    金売吉次(かねうりきちじ)の黄金伝説

    (2006年10月)

    • 藤原氏3代が異常な栄華を築いたのは、北上川の金をおさえていたからでした。北上川では、粒状の砂金を拾ったり、砂からより分けてとっていました。空海や最長は804年唐へ旅立ちますが、そのとき経費としてもっていったのが奥州の砂金でした。平清盛の旺盛な貿易を支えたのは、奥州の金でした。
    • 金をほしがっていた宋(960−1279)からは、かわりに茶、陶磁器、生薬、絹織物、書物などを手に入れました。日本は金は大事だとは思わず、名前も「黄色いカネ(金属)」→「黄(こ)ガネ」とよび、後年になって中国語からキンという名称を取り入れました。実は中国人も金には鈍感でしたが、宋のアラビア人が高く買ったから欲したのでした。
    • 源義経を奥州王である藤原秀衡(ひでひら)に引き合わせたのが、金売吉次(かねうりきちじ)です。伝説上の人物 金売吉次は、砂金をもって都へのぼり、鞍馬寺の牛若丸をひそかに連れだし、秀衡の保護下におきました。
    • 岩城県南部、宮城県北部には、金流川、金生囲(かこい)、金鶏橋、金山沢、金沢(かなざわ)といった金にちなむ地名が散見されます。

    金売吉次と黄金伝説栗原市金成町

    金売吉次伝説を探る

    くがね道

    くがね道。宮城県栗原市金成(かんなり)

    炭焼藤太の墓

    炭焼藤太(吉次の父)の墓

    常勝寺。金売吉次(かねうりきちじ)の菩提寺

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    左が吉次の墓。

    藩都を県名にできなかったトーホク

    (2006年6月1日)

    • 明治政府は、都道府県をつくるとき、官軍側には藩の所在地の名称を県名にすることを許しました。佐賀県は長崎の一部なのに県に昇格しました。佐賀出身の江藤新平、副島種臣(そえじまたねおみ)、大木喬任(たかとう)の強い主張によるものです。
      • 鹿児島市→ 鹿児島県
      • 山口市→ 山口県
      • 高知市→ 高知県
      • 佐賀市→ 佐賀県
    • トーホクは、奥羽越列藩同盟を組んで官軍に対抗したために、藩の所在地の名称を県名にすることが許されませんでした。後世にわかるように烙印を押されました。また県内をまとまりがつかないようにするために、歴史文化がちがう旧藩の部分部分をくっつけるようなことをやりました。
      • 盛岡市→ 岩手県
      • 仙台市→ 宮城県
      • 会津若松→福島県
    • 会津若松は若松県にならずに、わざわざ福島ムラに県庁を置かれて福島県になりました。会津藩士はまた青森県の下北半島に移されました。 会津人の怨念は深いものがあります。
    • 秋田藩は奥羽越列藩同盟より離脱したために、秋田県を名乗ることが許されました。
    • 2006年9月の総選挙でトーホクはこれまでの因縁で長州山口から首相を出したく思っていません。土地の古老曰く「岩手県の密かな願いは、首相の数で長州を追い抜きたいのです。長州人はトーホクがわかりません。わたしは考えがちがいますが、水沢出身の小沢一郎先生にはがんばってほしいです。」
      歴代首相輩出都道府県ランキング

     

    義経も泊まった栗原寺(りつげんじ)

    (2006年6月2日)

    • 岩手県最南端の一関市(いちのせきし)に接して宮城県栗原市があります。義経ゆかりの栗原寺(りつげんじ)があると小耳にはさみました。(この地域では県境を無視して結婚し、相手の県に田畑をもっていたりします。岩手県の一関市(いちのせきし)と宮城県の栗原市、登米市(とめし)は、一つの歴史文化圏です。)
      栗原市の位置
      栗原市
      宮城県の地図
    • 栗原寺(りつげんじ)は、かつては天台宗の奥州総本山でした。36坊を有し、僧数1000人を数え、浄土庭園を配した大寺院でした。
    • 義経が金売吉次(かねうりきちじ) に伴われて都を出、藤原氏を訪問のとき、この寺にとどまり、秀衡公への接見の許可を得るまで待ちました。迎えの使者350余騎と栗原寺(りつげんじ)の僧兵50人に護られて、平泉入りし、秀衡公との接見を果たしました。
    • その13年後、頼朝に追われたときも栗原寺(りつげんじ)にようようたどり着きました。このときは秀衡公の息子の泰衡公の150騎と僧兵に護衛されて平泉入りしています。
    • その後栗原寺(りつげんじ)は戦乱で消失し、奥州藤原氏の滅亡を追うように廃寺となりました。
    • 1984年に再興しました。
      源義経公生誕祭 栗原寺にて
    • ところで、埼玉県川越市の東京国際大学の近くには河越館(かわごえやかた)があります。わたしの散歩コースの一つです。義経の正妻はこの館で生まれ育ちました。河越も義経にゆかりがあります。
      河越重頼の娘は義経の正妻:河越館跡 
    • 栗原寺の住職に河越館(かわごえやかた)についてお話ししたら、高橋俊秀住職は東京国際大学の卒業生でした。わたしが研究室を共有した清水川先生のゼミ出身でした。ゼミの同期生には池田和穂日清製粉グループ本社取締役、日清フーズ社長 や銀行の部長などがいます。

    高橋住職

    栗原寺(りつげんじ)の高橋俊秀住職

    高橋住職

    河越重頼の娘(義経の正妻)について説明する高橋住職

    発掘された仏像

    3メートル近い仏像が付近の田んぼから発見されました。 2体の脇仏も

     

    有壁本陣は義経の家来 佐藤継信の嫡流

    • 有壁(ありかべ)本陣は、奥州街道の宿場で松前、八戸(はちのへ)、盛岡、一関(いちのせき)などの藩主が参勤交代の際に利用しました。
    • 本陣の主の佐藤家は佐藤継信(つぐのぶ)、忠信の末流だといわれています。継信は屋島(やしま、香川県高松市)の戦いに際し、平家の矢面に義経の身代わりになって立ち28歳で戦死しました。忠信も義経のために京都で自害しました。
    • 有壁本陣には松平容保(かたもり)の長持ち【画像】があります。朝敵の汚名をあびて会津藩全体が下北半島へ島流しになるときに立ち寄った時のものです。宿泊代がなく長持ち(トラベルバッグ)を預けていきました。
    • 明治天皇も岩倉具視などと有壁(ありかべ)本陣に休憩されました。 東北本線の開通により栄華を失いました。

    有壁本陣へのアクセス【地図】宮城県栗原市金成(かんなり)町

    奥州街道【地図】築館(つきだて)の北

    有壁(ありかべ)本陣

    有壁(ありかべ)本陣

    有壁駅

    有壁駅

     

    義経の政治音痴でなしえた頼朝の覇業

    (2006年7月)

    • 日本の国民史は鎌倉時代から始まります。奈良、平安時代には王朝の絵巻、絵空事の世界はあっても、一般庶民、農民の歴史はありません。
      律令体制のもとでは、農民はクワやスキを役所から毎日借り返すという生活を送っていました。平安中期の頃から鉄の生産技術が向上し、農具を自前でもち新しい土地を開墾する人たちがふえました。
    • 鎌倉時代になって、自分たちの耕した土地が自分のものになった実感が時代の空気となり、生活者の時代になりました。思想や芸術に至るまでリアリズムに満ちたものになりました。
    • 次の室町時代になって、いまの日本人の独自の生活文化が完成しました。みそ、醤油、豆腐、納豆、うどん、そば、日本料理、酒などの食べ物、床の間、座敷、玄関などの住居形態、茶道、能狂言、行儀作法などの文化習慣などがそうです。今の日本人は、鎌倉時代が用意し、室町時代が生んだ生活様式の上で生活しています。
    • 鎌倉時代までは、土地は官のものでした。しかし灌漑技術が発達し、それまでは山間谷間でのみおこなわれていた稲作が平地でもできるようになり、広大な関東平野に開墾地主が生まれます。しかし自分たちが耕した土地も官有でしたので、しかたなく管理権だけを得ることにしました。そのときに京の朝廷への口利きになってくれたのが、源氏と平家でした。源氏や平家は、天皇家が財政難の時子女を臣籍に下したのが起源です。
    • しかし、保元・平治の乱で源氏は滅亡しました。また平氏は口利きの役割を放棄し、公家入りしてしまいました。口利き役もいなくなり、さらに自分の耕した土地はすべて官のものだということで開墾地主(のちの武士)の不満は社会に充満していきます。このとき、「土地は耕した者のものにする」と土地革命をおこそうとしたのが頼朝です。手勢のない頼朝のもとに数万の武士団が参集するのは、頼朝の「律令国家解体、土地私有革命」に期待することが大きかったからでした。この公約を裏切れば武士団はさっとひいてしまいます。頼朝の毎日は綱渡りでした。
    • 奥州藤原王国で藤原秀衡に育てられた義経には、上の事情はわかりません。奥州は律令国家(半奴隷制国家)ではありませんでした。板東武士団が頼朝のもとに結集するのは、父義朝の仇討ち、源家の再興をはたさんとする頼朝の意気に感じてのものだと勘違いしていました。それで義経は自分は兄と同格と考え、軍令違反者を勝手に処罰したり、京都でかってに後白河法皇から官位をもらっていました。中央とは切り離された奥州という政治的真空で育った義経には、頼朝がめざす鎌倉秩序が「武士、農民の世を日本につくる大革命」であることがわかりませんでした。(cf. 石原靖久『司馬遼太郎で読む日本通史』PHP)
    • 頼朝は、義経の探索に名をかりて、守護地頭の設置を実現し、全国支配体制に踏み出しました。また、義経をかくまったという理由で、奥州藤原王国を版図に組み入れました。春秋の筆法をもってすれば、義経の政治音痴が1192年の頼朝による鎌倉幕府を用意したといえるでしょう。

    鈴木館跡

    鈴木館跡(宮城県栗原市金成)


    『義経記(ぎけいき)』では、衣川の最後の戦いで義経の郎党の鈴木兄弟がめざましく働き忠死します。上は兄の鈴木重家の館跡です。重家は「左手に2騎、右手に3騎を切り伏せ、7,8騎に手負わせ」腹を切ります。
    弟も兄と共に自害しました。武蔵坊弁慶も、衣川で仁王立ちになったまま討ち死にします。鈴木姓は東北では、佐藤、高橋についで多い姓です。鈴木善幸元首相は岩手県出身です。
    地方別苗字のランキング  <名前のページ

    ◇平安時代以来、奥州と熊野は、想像以上の結びつきをもっていました。熊野には藤原秀衡伝説もあります。熊野の修験者たちは、山の尾根伝いに、奥州に向かい、出羽三山などの修験道の聖地をつくり、奥州藤原氏と親交を結びました。熊野の修験者の子孫たちが多く奥州に移住し土着しました。鈴木兄弟も武蔵坊弁慶も、熊野の血をひいていると言われています。 三重県では鈴木姓は5位です。

    ◇義経びいきの東北の人は、義経(1159−1189)はその後チンギス・ハーン(1162年頃 - 1227年)になったとしました。

     

    2007年4月廃止のくりはら田園鉄道

    (2006年9月)

    • くりはら田園鉄道は、宮城県北部の登米(とめ)市、栗原市を走るディーゼルカーです。終点はかつての細倉鉱山です。
    • 初秋には黄金色の田んぼの中を26キロ、40分かけてのんびり進みます。
    • 遠くに見える岩手、宮城、秋田にまたがる栗駒山は11月過ぎには雪景色となり、縁起がよい左馬(ひだりうま)の雪形(ゆきがた、山腹にできる残雪の形)を演出します。栗色の馬だから「栗駒」と名付けられたのでしょうか。栗駒山は写真でほのかにうかがえるように女性的なコニーデ型の山です。
      左馬天童市
    • 2007年4月には永遠(とわ)の旅に出ます。鉄道マニアが名残を惜しんでいます。

    くりはら田園鉄道線【地図】

    くりはら田園鉄道【画像】荒川

    くりでん

     「くりでん」こと「くりはら田園鉄道」。晴れた日には左馬の雪形が見えることも。

     

    こんなナンバープレート、あ〜り〜!?:55−66 77−88

    (2006年6月4日)

    5566, 7788のナンバープレート

    55−66  77−88のナンバープレート
    • 白鳥(しろとり)酒店のガレージで55−66を見つけ、裏庭でもう1台珍しいのを発見しました。2台を店先に移動して頂きました。
    • 白鳥(しろとり)という姓はこのあたりでは、ふつうのようです。詩人の白鳥省吾(しろとり せいご)もこのあたりで生まれました。
    • 白鳥酒店所在地:宮城県栗原市金成(かんなり)日向(ひむかい)。金売吉次(かねうり きちじ)の子どもである炭焼き藤太(すみやき とうた)の墓への入り口にあります。
      炭焼き藤太の墓【地図】

     

    安重根と千葉十七(としち)の供養碑。斎藤実(まこと)

    (2006年6月)

    • 安重根(あんじゅうこん、アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は、1909年10月26日、中国のハルピン駅の構内にて、伊藤博文を射殺しました。
      安重根
    • 旅順獄中にとらわれの身となった30歳の参謀中将の安重根の特別看守を命ぜられたのが宮城県栗原市出身の千葉十七(としち)でした。25歳の千葉十七は安重根の人となりを知るにつれ心服するようになりました。千葉十七は帰郷の後も、処刑の直前に安重根からおくられた「為國獻身軍人本分(国のために身を捧げるは軍人の本分なり)」の遺墨を大切に保存し、遺影と共に終生追悼し続けました。1979年この書は韓国に返され、国宝指定となりました。
      安重根義士と千葉十七夫妻の日韓合同法要
    • 毎秋、祖国を思う心で結ばれたご両人の追悼供養が続けられ、韓国からの訪問者も絶えません。このような供養碑が建ち、立派に保存されているのは、日本の多様性、ふところの深さを示すものでしょう。
    • 「安重根と千葉十七の供養碑由来」の碑文を執筆揮毫したのは浅野志峰書道師範です。師範が碑文を入魂読誦する姿に奥州市出身の斎藤実(まこと)が重なりました。
    • 斎藤実(1858年12月2日-1936年2月26日)は、軍人でありのちに総理大臣になりましたが、その前に原敬に請われて朝鮮総督に就任しました。前後2回通算10年余りの朝鮮総督時代には、力による統治から文化統治へと施政を変え、民生の安定に努めました。トーホク出身の 原敬(たかし)も斎藤実(まこと)も、開明的であったために、共にテロリズムの犠牲になりました。
    • アテルイ、奥州藤原氏、戊辰戦争と続くトーホクの歴史の悲哀が隣国のそれに重なるものがあったのでしょうか、斎藤実(まこと)は朝鮮人の公僕であるかのようにふるまいました。
      斎藤実 ウィキペディア
      斎藤實記念館(奥州市)
    • アテルイは奥州市出身で、斎藤実(まこと)の大先輩です。台湾を愛し、台湾の発展に大きな貢献を果たし、台湾でも評価の高い後藤新平も奥州市出身です。

    安重根と千葉十七の供養碑

    安重根と千葉十七の供養碑。

    青雲寺(千葉十七の菩提寺。栗原市栗駒猿飛来鳥矢ケ崎14)。碑の高さは十尺7寸(3.24メートル)で安重根の故郷を向いています。近くの大林寺にも碑があります。

    安重根と千葉十七の供養碑由来

    安重根と千葉十七の供養碑由来

     

    大槻三賢人の一関(いちのせき)市

    (2006年8月)

    • 北上平野の南端にある一関(いちのせき)市は岩手県最南端の人口13万の市です。一関地域は明治のはじめ数年間、一関県として存在したという由緒もあります。仙台から東北本線で1時間20分です。
      市町村合併前と合併後の地図 岩手県観光協会
      一関市全体地図一関市役所
    • 一関市役所から送っていただいた封筒には、「 栗駒、三陸、平泉。 ここの起点が一関」とありました。栗駒山のある栗駒国定公園は岩手、宮城、山形、秋田にまたがっています。
    • 三陸は、陸奥(むつ)、陸中(りくちゅう)、陸前の3陸の総称です。北の八戸、久慈、宮古は、隆起海岸で断崖、絶壁が多く、良港は少なく、農牧が盛んです。南の宮古、釜石、大船渡、陸前高田、宮城県の気仙沼、牡鹿(おしか)半島は沈降地形のリアス式海岸で天然の良港に恵まれていて、世界三大漁場の仲間入りをしています。
      三陸ネット岩手県
      東北再発見
    • 一ノ関駅前には大槻(おおつき)三賢人の像があります。大槻玄沢は杉田玄白、前野良沢の教えを受け蘭学を開花させました。その息子は儒学者で、孫の大槻文彦は日本で最初の国語辞書『言海』をあらわしました。

    大槻三賢人、一ノ関駅前

    大槻三賢人像、一ノ関駅前

     

    「花と泉の公園」の一関市花泉町

    (2006年9月)

    • 一関市(いちのせきし)は宮城県に南接する市です。 一関市の花泉町は、宮城県に突き出たような町で宮城県の気仙沼市より南にあります。一ノ関駅から同じ市内の花泉へ行く電車は、一旦宮城県へ出て再び宮城県へ入ります。
      【地図】一関市全体地図
    • 花泉駅で花泉タクシーにのりました。運転手さんは宮城県から通っているとのことでした。花泉庁舎にも宮城県から通っている所員がいます。 岩手県のこのあたりは、宮城県の北部(登米市=とめし、栗原市)と生活圏、婚姻圏を一にしています。田んぼや畑も宮城県にあったり、こちらの田畑を宮城県の人がもっていたりします。出畑、入り畑、出作、入り作というそうです。学校にしても修学旅行は、盛岡よりも仙台へ行きます。 小中の相手の県への転入もあり、高校はさらにそれが自由なようです。 地域意識はまだ伊達藩です。
    • 「 花と泉の公園」で盛岡市からのご婦人の団体にこちらの感想をうかがいました。 「竹が茂っていて、一関(いちのせき)は宮城県みたい。南方みたい。」イネ科の孟宗竹(もうそうちく)はここが北限です。ここから北に竹は生えません。特にこのあたりは水害常習地帯ですので、鬱然とした竹が防波堤になっています。竹が材料の仙台七夕祭り は、北トーホクの人にはうらやましい限りです。(「 花と泉の公園」ではベゴニアがひときわ生えていました。 花びらが左右対称でないので花言葉は「片思い」です。 ) 「花と泉の公園」のなかにある牡丹園にはボタンが 1500本栽培されています。 埼玉県の東松山市と日本一を争うボタンの園です。 すべてのぼたんに名前がついています。
      花と泉の公園(花泉にあるのですから、「花泉公園」の方が固有名詞的で紛らわしくないかもしれません。)
    • 江戸時代後期の和算家の千葉胤秀(たねひで、1775‐1849)は、一関藩の関流の算学師範 でした。花泉庁舎前に銅像があります。
    • 花泉庁舎内にはハナイズミモリウシ(花泉盛牛)の模型があります。ハナイズミモリウシとは、「花泉」で「盛(もり)」さんが発掘に尽力した「牛」という意味です。盛(もり)さんとは、佐々木盛輔(もりすけ)のことで、花泉の村長をしていました。いまから2万年前の日本は、氷河期のため海水面は100メートルも低く、シベリアの方から野牛なども、地続きの日本へ南下してきました。この牛はアメリカの野牛(バイソン、bison)に似た種類です。
      ハナイズミモリウシ 岩手県
    • 古代米の「おりざ」などを利用したもちでも有名です。 伊達藩はもち、花巻市より上の南部藩はそばが定番です。
      花泉古代稲生産組合
    • まちの中央を金流川(きんりゅうがわ)が流れています。古老の話では、砂金の流れが、ハヤの腹を妖しく染めていた、ということです。金売吉次の黄金伝説の発祥の地でもあります。花泉の願いは、海まで最短1時間の道路を建設することです。

    ◇花泉町のキーワード:岩手県最南端の町。 花と泉の公園。ぼたん園。孟宗竹の北限。古代米「おりざ」。千葉胤秀(たねひで)。ハナイズミモリウシ。金流川

    ボタン園

    「花と泉の公園」のなかの「ぼたん園」

    北トーホク人がうらやむ鬱蒼とした竹林

    北トーホク人がうらやむ鬱蒼とした竹林

    古代米「おりざ」

    古代米「おりざ」

    もちの里 花泉

    もちの里 花泉

    和算の千葉胤秀(たねひで)。花泉庁舎前

    和算の千葉胤秀(たねひで)。花泉庁舎前

    2万年前のハナイズミモリウシ(花泉盛牛)

    2万年前のハナイズミモリウシ(花泉盛牛)

     

    宮沢賢治一色の花巻

    (2006年7月)

    • 2006年6月10日に、花巻(はなまき)にでかけました。 東京駅発ですと、3時間で到着です。
      • 東京駅    6:04    (新幹線)   新花巻9:03
    • 岩手県はすっかり宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に依存しています。このあたりは星がきれいです。
    • 花巻は宮沢賢治一色です。周遊コースは駅の案内所で教えてくれます。
      • 宮沢賢治めぐり :宮沢賢治記念館→ 宮沢賢治イ−ハト−ブ館→ 宮沢賢治童話村→ 花巻市内の賢治ゆかりの地 。花巻市
    • 賢治は童話作家、詩人である他に、音楽、絵画、演劇にも親しみました。また地質学、天文学、生物学を研究しました。岩手大学では地質調査研究をしました。学校でも教え、またみずからが農民でありました。 『注文の多い料理店』『雨ニモマケズ』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』が有名です。37歳で死亡しました。
    • 高村光太郎は、空襲で家が焼かれたため、1945年宮沢賢治の実家に移り住みました。しかし、その家も空襲で被災したため、 いまも「高村山荘」の名前で保存されている花巻郊外の粗末な小屋で7年間独居自炊の生活を送りました。
    • 高村光太郎に「岩手の人」という詩があります。ここは沈潜的でまじめな正義感の多い地です。光太郎は、賢治に思いをはせながらうたったにちがいありません。

岩手の人 沈深(ちんしん)牛の如し

両角(つの)の間に天球をいだいて立つ

かの古代エジプトの石の牛に似たり

地を往きて走らず

企てて草卒ならず

ついにその成すべきを成す

(【注】草卒 そうそつ。あわただしいさま)

花巻駅は東京駅から500キロ

東京駅から500キロの距離標。花巻駅にて

いわて銀河鉄道

いわて銀河鉄道

注文の多い料理店

注文の多い料理店

猫の受付

猫の受付。宮沢賢治記念館にて

イギリス海岸

イギリス海岸 。乾期にイギリスのような泥岩があらわれる

銀河鉄道の文化タクシー

銀河鉄道の文化タクシー

 

日露戦争を早期終結に導いた新渡戸稲造の『武士道』

(2006年8月)

  • 花巻市には、宮沢賢治の諸施設の他に、新渡戸稲造記念館があります。いろいろの所にためになるビデオコーナーがあるので、時間がたっぷりいります。わたしは1日をついやしました。わたしたちは旧5000円札で新渡戸稲造にあうことができます。
    花巻新渡戸記念館
    新渡戸稲造【画像】
  • 新渡戸稲造は日本初の国際人です。1900年37歳の時に刊行した『Bushido: The Soul of Japan(武士道 日本人の魂)』は海外で大きな反響を巻き起こしました。以降これ以上のベストセラーはでていません。
    『武士道』により、稲造は日本精神のよりどころ(=ノブレスオブリージュ noblesse oblige 貴族の義務)をあらわしました。
    アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト は、感動のあまり数十冊を購入し、世界の要人に配りました。ルーズベルト大統領が、日露戦争の講和の斡旋役を買って出たのは、稲造の描く武士道を尊敬したからです。『武士道』はその意味で日本の運命を救った一書です。矢内原忠雄は「その功績、3軍の将に匹敵する」と評しました。1920年には「われ太平洋の橋とならん」と言って国際連盟の事務局次長になりました。
  • 日本は維新後30余年で世界最大の軍事国家と戦い(1904−1905)、ロシアの強盗じみた極東侵略を阻止しました。日本はバルチック艦隊を日本海に沈め、旅順を抜き、ロシア陸軍を撃破しました。しかしロシア本国に攻め入りませんでした。世界最大のロシア陸軍は健在で戦争を続ける能力もありました。日本にはありませんでした。日本は兵力、弾薬を使い切っていました。ルーズベルトの仲介がなかったら、ロシア革命が蠢動していなかったら、日本の運命はどうなっていたでしょうか。
  • その後、軍事官僚達はこの事実を冷厳に分析することなく、夜郎自大になり日本を奈落に突き落としました。
  • 新渡戸家は南部藩の名門でした。戊辰戦争で賊軍となった南部藩は、城や領地を引き渡さねばなりませんでした。稲造の祖父は南部藩の勘定奉行として引き渡しの実務を取り仕切りました。父は藩主の命ではじめた青森県十和田市の新田開発の仕事に律儀に取り組みました。「稲造」という名も新田開発の夢を込めてのことでした。7人の子供をもちながらも家をほとんど空けたままで仕事に打ち込み、48歳でなくなりました。
  • 稲造の父は米作を願って新田開発に命をささげました。岩手県では花巻市から上が南部藩で、もてなし料理はそばです。奥州市以南の伊達藩では餅です。米は江戸時代までは金銭そのものでした。稲造が札幌農学校を目指し農政学を専攻したのもむべなるかなです。
    市町村合併前と合併後の地図 岩手県観光協会
  • 明治政府は北海道の開発を国家的な重要課題とし国家予算の1年分に相当する巨費を投じて買いたく事業を始めました。開拓の人材養成のために札幌農学校(北海道大学)を開設しました。初代学長にはクラークを招き入れました。
  • 稲造は札幌農学校を卒業後、東京大学に入学しましたが飽きたらず、翌年退学し、23歳でアメリカに向かい農業経済学などを学びました。帰国後は札幌農学校で教鞭をとりました。1901年、奥州市水沢出身の後藤新平に推されて台湾の殖産事業に参画しました。東大教授、東京女子大学長を歴任し、1920年から国際連盟事務次長として活躍しました。
  • 花巻市役所
  • 新渡戸稲造の世界財団法人新渡戸基金
  • 新渡戸稲造 ウィキペディア
  • 十和田市立新渡戸記念館
  • 新渡戸稲造:盛岡市先人記念館
  • 新渡戸稲造文庫目録『Bushido: The Soul of Japan』も収録。北海道大学

 

新渡戸記念館

花巻新渡戸記念館

新渡戸記念館内部

新渡戸記念館案内図

 

新渡戸稲造の影響で農業経済学に進んだ李登輝

(2006年8月)

  • アジア第一の哲人政治家といわれる李登輝が農業経済学に進んだのは新渡戸稲造の影響です。台湾人の李登輝には『「武士道」解題』(小学館)という稲造の『武士道』についての著作もあります。
  • 李登輝は中学生の時すでに鈴木大拙を読み、『臨済録』をひもとき人生の指針としていました。さらに『漱石全集』、阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三『出家とその弟子』、『古事記』、『玉勝間』、『源氏物語』『枕草子』『平家物語』の愛読者でもありました。
  • 高校での愛読書は、西田幾太郎『善の研究』、和辻哲郎『風土』、中野好夫『アラビアのロレンス』、アインシュタイン『物理学はいかにして生まれたか』、『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』などで、岩波文庫だけで700冊以上も所有していました。
  • 1942年8月台北高校を繰り上げ卒業し、同年10月京都大学農学部農業経済学科に入学した。農業経済をめざすようになったのは、農村の小地主のせがれに生まれ、早くから農業問題の矛盾に疑問を抱いていたからであり、新渡戸稲造に出会ったからでした。(新渡戸稲造は台湾の殖産事業に参画しました。)卒業論文は、『台湾の農業労働問題の研究』でした。
  • 李登輝は、日本独自の伝統を築きあげてきた明治期の大先達を高く評価しています。 奇しくも新渡戸稲造(岩手県)、西田幾多郎(石川県)、鈴木大拙(石川県)、阿部次郎(山形県)らは、奥羽越列藩同盟の地で生まれ育っています。また石川県出身の八田與一は台湾の中学教科書に業績が詳しく紹介されています。嘉南の大灌漑工事を完成させました。
  • 2006年秋に李登輝は、芭蕉を初め上の日本の先達の跡をしのびに来日することになっています。
  • 李登輝【画像】
  • 李登輝ウィキペディア
  • 台湾の歴史と展望:李登輝を中心として  (160kで重いです。Wordで50ページ。 1999年。 2002年10月 加筆)  桑原政則   
  • 台湾および李登輝年表桑原政則

 

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原敬(はらたかし)に由来するわんこそば

(2006年6月12日)

椀に盛って出すわんこ(椀子)そばは、岩手県の郷土料理です。

  • 原敬(はらたかし、通称はらけい)の母は、そばづくりの名人でした。1884年創業の老舗「直利庵(ちょくりあん)」は、原家でふるまわれるお椀形式のそばをとりいれ、わんこそばとして振る舞いはじめました。これがわんこそばの始まりです。盛岡のカレーも原家から広まったといわれています。(『岩手日報』2006年5月14日 )
    直利庵(ちょくりあん)
  • わんこそばは、椀の中にかけそばを投げ入れる大食い競争で有名になりました。刻みねぎ、花かつお、大根おろし、きざみのり、マグロの刺身が薬味です。10杯でざる1枚換算です。遠慮がちなこの地の人に、腹一杯食べてもらうためのアイディアでもあったようです。

直利庵

直利庵

1回で15のわんこ

1盆で15のわんこ

わんこの投げ入れ

わんこの投げ入れ。「はーい。じゃん、じゃん」。

「かまないで」「おつゆは飲まないで」

マッチ棒タテが1杯、ヨコが10杯、55杯

マッチ棒タテが1杯、ヨコが10杯、いま55杯。225杯食べた人も

 

25歳で地方分権をとなえた原敬

(2006年6月16日)

  • 原敬は、司法省法学校(東大法学部)を藩閥風を吹かす薩摩出身の校長の排斥運動に加わり退学しました。津軽藩出身の陸羯南(くがかつなん)、福岡藩の福本日南など賊軍呼ばわりされた藩の出身者も同一行動をとりました。
  • 退学後、23歳の時に『露西亜国勢論』をフランス語から翻訳しました。その後、新聞社に入り、北海道、東北、関東をまわり72回にわたり見聞録を連載しました。このときすでに地方分権の重要性をとなえました。「現在はすべて東京中心主義の政治だから、中央と地方の格差が大きくなってしまった。地方分権しなければ、地方は必ず衰退する。地方に権限を与えよ」
  • 26歳で外務省に入り、天津に2年、パリに3年赴任しました。
  • 39歳で外務次官となり、病気がちの陸奥大臣に代わって活躍しました。
  • 41歳から4年間『大阪毎日新聞社』の編集責任者、社長として活躍しました。100本以上の記事を書き、言文一致、漢字減少論をとなえました。
  • 45歳になると大阪北浜銀行頭取になり、49歳には古川鉱業の副社長(実質は社長)になりました。このとき古川の寄付で、北大、東北大、九大を開校しました。(古河とドイツのジーメンスが合弁で設立したのが、富士電機です。古河の「フ」とジーメンスの「ジ」から名付けられました。)44歳の時逓信大臣を兼務しています。
  • 1918年首相になりました。政党を中心とする内閣をはじめてつくり、藩閥や軍閥の弱体化をはかりました。教育の充実、地方の振興、アメリカとの関係を重視し、中国との関係改善に努力しました。開明的な原を無視した日本は軍部の独走で破滅の道を歩みました。
  • 盛岡からの山田線の建設計画がもちあがったとき、「総理はそんな山奥に鉄道を敷いて、山猿でも乗せる気ですか。」との質問を国会で受けたこともありました。
    山田線
  • 19歳から死の65歳まで日記を書き続けました。原は、この日記の執筆に心血を注ぎました。この日記は近代日本の政治史を知る上で比類のない資料となっています。
  • 爵位をこばみ続け、爵位をもたないまま首相になった原敬を世間は「平民宰相」とよび歓迎しました。
  • 戊辰戦争によって朝敵の位置に追い込まれた岩手を擁護し、  「1868年の戊申戦役は政権の異同があっただけのことです」と朝敵の汚名をそそぎました。
  • 俳号は「一山」、印章は「一山百文」。「白河以北一山百文」といいはなった薩長への激越な反感が見られます。地元では「一山」ではなく「逸山」とよんでいます。
  • 5歳から読み書きや漢学を学びました。これが原敬の広大なインフラとなりました。漢学は、英語で言うとギリシャ語、ラテン語にあたります。(小学生は英語ではなく、国語をしっかり学んでほしいものです。)
  • 死後、財産は政友会に寄贈し、自らには何も残さなかった井戸塀政治家でした。
  • 今まででいちばんエライ総理大臣は原敬です。2番目は吉田茂、3番目は伊藤博文です。
  • 2006年は原敬生誕150年です。
  • 原敬 【画像】Google
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ダンディーな原敬

ハラケイと地元ではよんでいます。

Hara Kei Memorial Museum。

もっともダンディーな政党人でした

原敬博物館

原敬博物館

原敬の生家

原敬の生家

宝積(ほうじゃく)

「寶積(ほうじゃく)」

「人に尽くして見返りを求めない」との意味を込めました。

右から読みます。

◇盛岡ではホテル東日本 盛岡 に投宿しました。原敬の別邸跡です。敷地内に大きな冷蔵庫ほどの圓通神社があります。圓通とは、真理を悟る智慧の実践のことで、西園寺公望の揮毫(きごう)した額があります。案内してくださったのは、奇遇にも、東京国際大学の教え子にあたる佐々木章さんでした。「圓通神社御守」をいただきました。原敬の「寶積(ほうじゃく)」にならって、みなさまの無病息災を祈念しています。2006年は原敬の生誕150年です。

 

野村胡堂の別名は「あらえびす」

(2006年8月)

  • 野村胡堂は1882年盛岡市南隣の紫波(しわ)郡に生まれました。、新聞社の社会部長をしていた1931年50歳の時に『オール読物』創刊に際し、『 銭型平次(ぜにがたへいじ)捕物控』を書き始め、以後27年間にわたり383篇を執筆しました。物語は明朗で健康なユーモアにあふれており、暴力シーンはありません。 胡堂が受けたリベラルな教育環境によるものでしょう。平次の 「平」は平民からとったものです。 吉田茂は首相の頃ひまを見ては平次を読んでいました。 平次と恋女房のお静が住んでいたところは、神田明神下の秋葉原よりです。神田明神の東側はかなり高い崖になっています。
    神田明神 【地図】
  • 盛岡中学校では生涯の友金田一京助と同窓で、1年下には石川啄木がいました。胡堂は啄木は校友会雑誌の編集をやったり、家へ遊びに行き来したりし、胡堂は俳句、短歌の手ほどきもしました。
  • 「胡」とは中国では異民族のことで、胡椒、胡瓜(キューリ)、胡麻(ごま)、胡椒などは異国からのものです。日本では「えびす」のことです。胡堂というペンネームは新聞社にいたときの同僚が勝手に付けたものですが、東北人であることの気負いのあるこの名を好いていました。胡堂は「あらえびす」のペンネームで、クラシック音楽評をしました。2万枚の レコードコレクションがありました。 東京大学の法学部の時にはフランス語の法律書を読みこなしています。胡堂にはフランス語の小説の影響があります。原敬といい、岩手の人にはハイカラでダンディな人が多いようです。
  • 胡堂は、井深大という研究者が会社を作ろうとしているのを株を買ったりして援助しました。井深のおこしたソニー株が後年大きくふくらんだので、これをもとに財団法人野村学芸財団を設立し、学生等への奨学金の交付をおこなっています。胡堂は、卒業まで数ヶ月のところで父の死にあい、大学を中退しました。
  • 野村胡堂・あらえびす記念館 岩手県紫波(しわ)町。盛岡市の南
  • 野村胡堂 Wikipedia

 

戦後日本の学童を給食で救った浅野七之助

(2006年6月22日)

  • 盛岡は偉人賢人を輩出しています。「盛岡市先人記念館」には新渡戸稲造(にとべいなぞう)、米内光政(よないみつまさ)、金田一京助(きんだいち きょうすけ)をはじめ130人ほどの先人たちの遺品や資料が展示されています。宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂も盛岡人です。
  • 「盛岡市先人記念館」にはわたしたち世代の命の恩人浅野七之助さんも展示されています。
  • わたしは、東京から疎開して、1946年三重県の小学校に入りました。教室が足りないので、2部授業でした。廊下授業もふつうでした。窓ガラスはありませんでした。1年生の時はガリ版刷りの国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ」とカタカナで記されていました。当時は漫画もカタカナでした。蝶々は「テフテフ」でした。2年になって突然ひらがなの教科書になりました。カタカナは軍国主義を助長するからとのことでした。外国人になったような気がしました。
  • 学校は午前で終わったり、午後から始まったりでいい加減でした。その時々で来ない者も多くいました。食べるものがありませんでした。栄養失調で動けませんでした。
  • しかし、ある時から学校がみんなにとって楽しみに変わりました。無料給食が始まったのでした。さいころ4つ分ぐらいの分厚いチョコレートが出たことがありました。コッペパン、ミルクが出るようになったのです。天国降誕です。ある者は給食時間にだけ学校にきたりしました。
  • それまでは、登下校の途中で草花虫野菜芋や木の根ですきっ腹をいやしていました。米、イモなど食べるものはありませんでした。(わたしたちが下の世代よりも身長が10センチも低いのはこのためです。)
  • わたしたちの学校を天国にしてくださったのが、原敬の書生をして、アメリカに渡った浅野七之助さんです。浅野さんの「ララ物資」でわたしたち児童は学校が好きになり、体力を維持できました。浅野さんはわたしたちの世代の恩人です。
  • 盛岡市先人記念館
  • 浅野七之助
  • わたしたちのキョウーダイは、5,6人がふつうでした。オクニが親に「生みなさい」といったからでした。戦後は「日本が貧しいのは人口が多すぎるからである」といわれました。わたしは親戚のいるブラジルへ行くことも考えました。今は、「生まないから日本は滅びの道を走っている」といわれています。

 

小笠原満男も育てた盛岡商の斉藤監督

(2007年1月9日)

小笠原満男

小笠原選手激励の垂れ幕(2006年6月11日、盛岡駅前にて)

2007年1月8日、全国高校サッカーで盛岡商が優勝を飾りました。

  • 斉藤監督は、大船渡高で小笠原(メッシーナ)や中田(仙台)を育てました。
  • 盛岡商ではチームのためにバス2台を自費で購入しました。
  • 昨年には2度目の手術を受け12月25日退院したばかりです。