コラム:鹿児島を歩く、です。
目次
(2006年10月)

薩摩武士の風貌の沈壽官氏

武家屋敷のたたずまいの沈壽官家。青みがかった石垣と生け垣が薩摩の特長。

沈壽官窯元(かまもと)の武家門

右手の建物が収蔵庫。薩摩焼のビデオの説明も
陶工たちは、朝鮮伝来の作陶技術をもって薩摩藩に厚遇されました。士分格の扱いを受けていました。 沈家に門があり、塀がめぐらしてあるのはそのあかしです。沈壽官家は、すでに15代を数えています。日本にきて400年余り、すっかり日本人になって、誰よりも薩摩人らしい薩摩人といわれています。

韓国からのツーリストたち。沈壽官窯元(かまもと)は貴重なツーリストスポットになっています。
それでもなお、ふるさとへの想いは深く、祭事には、故郷の山々に向かって、先祖に祈りをささげています。江戸時代をとおして、朝鮮の服装、習慣をこの隠れ里で貫き通していました。

大柄の沈壽官氏「今の夢はラオスの土をこねることです。ラオス語はタイ語で通じると聞いています。タイ語の桑原先生、今度ラオスへいかがですか。」
沈壽官:鹿児島県美山(みやま)【画像】
沈寿官陶苑【画像】
東市来(ひがしいちき)町観光協会 薩摩焼発祥の地・美山(みやま)
(2006年10月)
「咲く花も1つなり 萩も朝顔も」(『薩摩焼 沈家歴代作品図録』(斯文堂)への揮毫)。帰埼後にこの「白(しろ)もん」でのお茶が楽しみになりそうです。
こけけ王国。(こけけ=ここ+来る+買え)
11月には、美山窯元祭りが盛大に
薩摩焼。海岸。温泉の東市来(ひがしいちき)
東市来の駅に入ってくる列車

東市来町の美山地区は、鹿児島中央駅からJRで北西へ30分の所にあります。窯元は10以上あります。
東市来町観光協会
東市来町への交通アクセス(下車駅は「東市来」です。訂正方を連絡しておきました。)
東郷茂徳記念館の入り口
東郷茂徳記念館外貌
(2006年10月)
(2004年10月4日)
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イチローが大記録を達成しました。日系アメリカ人の喜びもひとしおです。
戦前、イタリア系アメリカ人は強制収容所送りされるところでした。アメリカが独日伊と戦争をしていたからでした。しかし、議会で「ディマジオはアメリカのヒーローではないか。イタリア系もアメリカ人だ」とのことで、イタリア系アメリカ人は強制収容所送りをまぬがれました。
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プロ野球のヒーロー ディマジオがイタリア系アメリカ人を救いました。日系人は、土地財産を没収され、マンザナーなどの収容所におくられました。このことがなければ、今ごろは日系の副大統領ぐらいは生まれていたはずです。
戦前、イチローがいれば、日系人も収容所送りをまぬがれていたはずです。
このように、一人の人間が大きく歴史を変えることがあります。
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島津斉彬(なりあきら)は、薩摩を、日本を変えました。
1840年のアヘン戦争で中国はやぶれました。次に植民地になるのは、日本です。
北上する欧米列強の最初のエジキは、琉球を含めた薩摩藩です。
斉彬(なりあきら)が藩主になる1851年のほぼ10年前のことです。
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ペリーは、日米和親条約(1854年)締結前に、4回薩摩藩に属した琉球をおとずれ、琉球の港、家屋、地質、鉱物の徹底調査をおこなっていました。
鉄砲の伝来、キリスト教の布教といった日本と西欧の出会いの舞台は、薩摩藩です。
薩摩の嗅覚がするどくなるのは当然です。
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斉彬は、日の丸を考案しました。従来の和船では、100トンしかなく、旗がなくても形からすぐ日本の船だとわかりました。洋式船を建造することになり、日本の船であることを示す旗が必要になりました。1860年、日の丸が国旗になりました。
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銃の発射のために、アルコールが必要でした。焼酎のアルコールを使いました。しかし、従来の米焼酎では、コストがかかりすぎます。斉彬は、芋で焼酎をつくるように命じました。
今、斉彬がはじめた芋焼酎は、生産が追いつきませんでした。
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斉彬は、伝統工芸の薩摩焼を輸出商品に育て上げる努力をしました。今、海外にある日本の焼き物の半分以上は薩摩焼です。
*薩摩焼 【画像】
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薩摩切子(きりこ)の生みの親は、斉彬です。透明ガラスの外側に色ガラスをかぶせ、色ガラスをカットして文様を浮かび上がらせたものです。
水墨画にも通じるぼかしの美は、薩摩切子の独創です。
*薩摩切子 【画像】
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斉彬は学問を重視しました。
造士館、演武館、国学館、洋学所の改革設置をおこないました。江戸、長崎への留学を奨励しました。
斉彬は、多くの蘭学者と交流し、西欧の最新知識を吸収し続けました。
ローマ字で日記をつけていました。
地球儀を常用していました。
*日本は鎖国はしていませんでした。薩摩口(中国、南洋)、対馬口(朝鮮)、長崎口(オランダ)、松前口(ロシア)と4つの口を、あけていました。
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日本最古の写真は、1857年斉彬を写したものです。斉彬は、「父母の姿を100年の後に残す貴重な術」としての写真術の研究を進めました。
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薩摩藩は、南からの欧米列強の脅威を身に受けていました。斉彬は、海軍力を重視し、海軍の養成に注力しました。山本権兵衛、東郷平八郎などの逸材は、このような「海の薩摩」の環境の中で生まれました。
*東郷平八郎 ウィキペディア
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在位わずか7年半の間に、斉彬は今日の薩摩、日本の土台をつくりあげました。
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斉彬(なりあきら)のプロジェクトは、西郷、大久保らにひきつがれました。特に大久保は各地に民営工場を築き、産業の育成につとめました。
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いま、迫りくる新幹線開通の前に薩摩がやるべきことがあります。
新幹線が開通すれば、ストロー現象がおこり、博多に鹿児島の養分を吸いとられてしまう懸念があります。
逆ストロー現象を起こす必要があります。斉彬などの築いた産業遺構を桜島、錦江湾などと組み合わせて
世界遺産に登録する
ことです。
*『集成館事業 島津斉彬の挑戦』尚古集成館、2003年
*島津斉彬(なりあきら) 【画像】
*尚古集成館の偉業
反射炉 溶鉱炉 紡績工場 造船所:最初の洋式軍艦 昇平丸
切子 薩摩焼 写真 活字印刷