コラム:鹿児島を歩く

 

司馬遼太郎の沈壽官はいまだ健在

(2006年10月)

  • 司馬遼太郎がほぼ40年前に『故郷忘(ぼう)じがたく候』(文春文庫)で描いた主人公沈壽官(ちん・じゅかん)氏は80歳で健在です。

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    薩摩武士の風貌の沈壽官氏

  • 秀吉の7年にわたる朝鮮侵略戦争は、1598年島津勢の撤退で終わりました。南原(なんげん)の戦いでは、10万の日本軍が明軍に対して動員されました。宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、蜂須賀、長宗我部などの直属攻撃軍の他に、加藤清正の5万の別働隊です。
  • 島津義弘は、南原(なんげん)城の戦いのさい、陶工たち80名ほどを連れ帰りました。この陶工たちが鹿児島県美山(みやま)で始めたのが、薩摩焼の始まりです。朝鮮へ渡った他の有力大名がてぶらで帰ったとき、島津だけが陶工を連れ帰りました。また、のちに彼らを士分に取り立てました。
    南原(なんげん)【地図】

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武家屋敷のたたずまいの沈壽官家。青みがかった石垣と生け垣が薩摩の特長。

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沈壽官窯元(かまもと)の武家門

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右手の建物が収蔵庫。薩摩焼のビデオの説明も

陶工たちは、朝鮮伝来の作陶技術をもって薩摩藩に厚遇されました。士分格の扱いを受けていました。 沈家に門があり、塀がめぐらしてあるのはそのあかしです。沈壽官家は、すでに15代を数えています。日本にきて400年余り、すっかり日本人になって、誰よりも薩摩人らしい薩摩人といわれています。

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韓国からのツーリストたち。沈壽官窯元(かまもと)は貴重なツーリストスポットになっています。

それでもなお、ふるさとへの想いは深く、祭事には、故郷の山々に向かって、先祖に祈りをささげています。江戸時代をとおして、朝鮮の服装、習慣をこの隠れ里で貫き通していました。

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大柄の沈壽官氏「今の夢はラオスの土をこねることです。ラオス語はタイ語で通じると聞いています。タイ語の桑原先生、今度ラオスへいかがですか。」

沈壽官窯公式ホームページ

沈壽官:鹿児島県美山(みやま)【画像】

沈寿官陶苑【画像】

東市来(ひがしいちき)町観光協会 薩摩焼発祥の地・美山(みやま)

白薩摩は島津家専用

(2006年10月)

  • 「咲く花も1つなり 萩も朝顔も」(『薩摩焼 沈家歴代作品図録』(斯文堂)への揮毫)。帰埼後にこの「白(しろ)もん」でのお茶が楽しみになりそうです。

  • 陶工を朝鮮から連れ帰った島津義弘は、鹿児島県美山に窯元(かまもと)を建て、朝鮮の李朝のような焼き物を作るように命じました。
  • 李朝の色は白で、李朝といえば白磁です。陶工たちは、朝鮮のような良質の土がないため磁器ではなく、乳白色の土を使って陶器にし、皮を薄くしました。これが白薩摩(しろさつま)の始まりです。
  • 白薩摩は、乳白色の土に透明の釉薬(うわぐすり)をかけてつくります。クリーム色の地肌に蝉の羽根のような細かなヒビ(貫入、かんにゅう) が入っています。 このヒビが深みと暖かさをかもし出し、全体として優雅で気品に満ちています。島津家の御用品としてのみ焼かれました。
  • 薩摩藩は、幕末には大規模な白磁工場をつくり、第12代の沈壽官を主任にして、コーヒー茶碗、洋食器の製造をおこない、巨利を得て、倒幕のための財源にもしました。
  • 時はまだ江戸時代の1867年、パリで万国博覧会が開かれました。「薩摩琉球国」は、徳川幕府と共に、参加しました。第12代沈壽官作の白薩摩が異彩を放ち、薩摩焼の名をヨーロッパに広めました。
  • なお、金属を多量に含んだ土でつくった焼き物は黒薩摩(黒もん)とよばれます。重厚で野趣にあふれた庶民の生活の器となっています。白薩摩は「白もん」と俗称されます。
    Satsuma wares 【英】

 

「こけけ」のまち美山(みやま):鹿児島弁

(2006年10月)
  • こけけ王国。(こけけ=ここ+来る+買え)

  • 11月には、美山窯元祭りが盛大に

  • 薩摩焼。海岸。温泉の東市来(ひがしいちき)

  • 日置(ひおき)市東市来町の別名は「こけけ王国」です。「こけけ」とは、「ここに来てください」、「ここで買ってください」という意味です。薩摩焼の窯元(かまもと)、温泉、海釣りに来て下さい、そして買って下さい、というキャッチコピーです。
  • 「けけけ」となると、「貝、買い、来い(貝を買いに来い)」となります。鹿児島弁は、薩摩藩が江戸幕府の隠密の任務を妨害するために、わざとわかりにくい言葉にしたのだ、という話もあるくらい独特なことばです。
  • 母音二つをひとつにちじめます。母音は3つですませます。「っ」も多いです。「口」も「首」も「くっ」になるので、「くっが痛い」ではどちらかがわかりません。
  • 「からいも普通語」とは、鹿児島弁的標準語です。「行こう」の鹿児島弁は「行っもんがー」です。「からいも普通語」では「行くがー」になり、幅広く使われています。
    俗説鹿児島弁辞典
    鹿児島弁辞典
  • 明治維新をつくったからでしょうか、鹿児島弁には劣等感がありません。京都弁、大阪弁もそうです。地域にゆたかな歴史、文化、経済があると、言葉にも自信が出てきます。独特の歴史文化のある東北地方の台頭をねがっています。
  • 東市来の駅に入ってくる列車

  • 東市来町の美山地区は、鹿児島中央駅からJRで北西へ30分の所にあります。窯元は10以上あります。
    東市来町観光協会  
    東市来町への交通アクセス
    (下車駅は「東市来」です。訂正方を連絡しておきました。)

元外務大臣東郷茂徳(しげのり)も陶工の子孫

(2006年10月)
  • 東郷茂徳記念館の入り口

  • 東郷茂徳記念館外貌

  • 陶芸の日置市美山集落からは、終戦時の外務大臣東郷茂徳(とうごうしげのり)も出ています。島津義弘が連れ帰った陶工の子孫で、旧姓は朴です。A級戦犯となり病没。もとの駐米大使東郷文彦は茂徳の娘婿です。
  • 太平洋戦争後、1000人以上BC級戦犯が処刑されました。朝鮮国籍者もいました。洪思翊(こう・しよく)陸軍中将は、フィリピンの法廷で一言も発言することなく、絞首刑となりました。洪思翊(こう・しよく)中将は日本の陸軍大学校を卒業し、陸軍中将まで異例の昇進をしました。人情味のあるやさしくきびしい人柄であったと言われています。
    山本七平『洪思翊中将の処刑』ちくま文庫 
  • 秀吉の朝鮮の役で、朝鮮水軍を率いて驚異的な活動をし、日本の水軍を撃破したのが李舜臣です。300年後、日本海軍は、ロシアのバルチック艦隊との闘いに出動するに当たり、李舜臣将軍の霊に祈りました。
  • 鹿児島の知覧特攻基地からは20歳前後の若者が沖縄周辺の米艦隊を空爆するために出陣し、1000人以上が犠牲になりました。なかには7人の朝鮮国籍者もいました。
    知覧特攻平和会館左欄に目次

 

日本史の中の薩摩人

(2006年10月)

  • 鹿児島でまず訪れるべきは「維新ふるさと館」でしょう。ここで半日過ごせば、明治維新がぐっと身近に親しみやすくなります。とくに「維新体感ホール」では、幕末から維新にかけての英傑たちによる日本の夜明けのハイテクドラマが見ものです。
    維新ふるさと館 
    維新ふるさと館へのアクセス地図
    薩摩史探訪:加治屋町周辺に限定した史跡
    薩摩のみどころ一覧維新史関係のスポットです。
  • 鹿児島市の小さな加治屋町の一画からたくさんの偉人がでました。加治屋町ゆかりの偉人を列挙します。
    • 西郷隆盛
    • 大久保利通:明治政府のいしずえを築く
    • 村田新八:私学校の創設に参加
    • 大山巌:陸軍元帥
    • 西郷従道(つぐみち):隆盛の実弟で海軍大臣
    • 東郷平八郎:日露戦争の連合艦隊司令長官
    • 山本権兵衛:総理大臣
  • 加治屋町では、先輩が後輩を教え導く薩摩独特の「郷中(ごうじゅう)教育」が盛んでした。「武士道の実践」「心身鍛錬」「質実剛健」などが教育されました。ボーイスカウト制度のもとになったといわれています。
  • 薩摩藩は、他藩に先駆けて財政改革に成功したこと、島津斉彬(なりあきら)という開明的な藩主がいたこと。西郷、大久保という指導者が育ったことなどにより、維新のリーダーシップを握ることができました。
  • 鹿児島県人は近代日本史が得意なはずです。なのに、大学進学率がふるいません。第39位です。奮起していただきたいところです。
    鹿児島県の統計:大学進学率鹿児島県

 

一人の人間が歴史を変える:イチローと斉彬(なりあきら)

 (2004年10月4日)


イチローが大記録を達成しました。日系アメリカ人の喜びもひとしおです。

戦前、イタリア系アメリカ人は強制収容所送りされるところでした。アメリカが独日伊と戦争をしていたからでした。しかし、議会で「ディマジオはアメリカのヒーローではないか。イタリア系もアメリカ人だ」とのことで、イタリア系アメリカ人は強制収容所送りをまぬがれました。

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プロ野球のヒーロー ディマジオがイタリア系アメリカ人を救いました。日系人は、土地財産を没収され、マンザナーなどの収容所におくられました。このことがなければ、今ごろは日系の副大統領ぐらいは生まれていたはずです。

戦前、イチローがいれば、日系人も収容所送りをまぬがれていたはずです。

このように、一人の人間が大きく歴史を変えることがあります。


島津斉彬(なりあきら)は、薩摩を、日本を変えました。

1840年のアヘン戦争で中国はやぶれました。次に植民地になるのは、日本です。

 

北上する欧米列強の最初のエジキは、琉球を含めた薩摩藩です。

 

斉彬(なりあきら)が藩主になる1851年のほぼ10年前のことです。


ペリーは、日米和親条約(1854年)締結前に、4回薩摩藩に属した琉球をおとずれ、琉球の港、家屋、地質、鉱物の徹底調査をおこなっていました。

鉄砲の伝来、キリスト教の布教といった日本と西欧の出会いの舞台は、薩摩藩です。

 

薩摩の嗅覚がするどくなるのは当然です。

 


斉彬は、日の丸を考案しました。従来の和船では、100トンしかなく、旗がなくても形からすぐ日本の船だとわかりました。洋式船を建造することになり、日本の船であることを示す旗が必要になりました。1860年、日の丸が国旗になりました。


銃の発射のために、アルコールが必要でした。焼酎のアルコールを使いました。しかし、従来の米焼酎では、コストがかかりすぎます。斉彬は、芋で焼酎をつくるように命じました。

今、斉彬がはじめた芋焼酎は、生産が追いつきませんでした。


斉彬は、伝統工芸の薩摩焼を輸出商品に育て上げる努力をしました。今、海外にある日本の焼き物の半分以上は薩摩焼です。

*薩摩焼 【画像】


薩摩切子(きりこ)の生みの親は、斉彬です。透明ガラスの外側に色ガラスをかぶせ、色ガラスをカットして文様を浮かび上がらせたものです。

水墨画にも通じるぼかしの美は、薩摩切子の独創です。

*薩摩切子 【画像】


斉彬は学問を重視しました。

造士館、演武館、国学館、洋学所の改革設置をおこないました。江戸、長崎への留学を奨励しました。

斉彬は、多くの蘭学者と交流し、西欧の最新知識を吸収し続けました。

 

ローマ字で日記をつけていました。

 

地球儀を常用していました。

 

*日本は鎖国はしていませんでした。薩摩口(中国、南洋)、対馬口(朝鮮)、長崎口(オランダ)、松前口(ロシア)と4つの口を、あけていました。


日本最古の写真は、1857年斉彬を写したものです。斉彬は、「父母の姿を100年の後に残す貴重な術」としての写真術の研究を進めました。


薩摩藩は、南からの欧米列強の脅威を身に受けていました。斉彬は、海軍力を重視し、海軍の養成に注力しました。山本権兵衛、東郷平八郎などの逸材は、このような「海の薩摩」の環境の中で生まれました。

*東郷平八郎 ウィキペディア


在位わずか7年半の間に、斉彬は今日の薩摩、日本の土台をつくりあげました。

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斉彬(なりあきら)のプロジェクトは、西郷、大久保らにひきつがれました。特に大久保は各地に民営工場を築き、産業の育成につとめました。


いま、迫りくる新幹線開通の前に薩摩がやるべきことがあります。

新幹線が開通すれば、ストロー現象がおこり、博多に鹿児島の養分を吸いとられてしまう懸念があります。

逆ストロー現象を起こす必要があります。斉彬などの築いた産業遺構を桜島、錦江湾などと組み合わせて

  世界遺産に登録する

ことです。

*『集成館事業  島津斉彬の挑戦』尚古集成館、2003年

*島津斉彬(なりあきら) 【画像】

*尚古集成館

*尚古集成館の偉業
反射炉  溶鉱炉  紡績工場  造船所:最初の洋式軍艦 昇平丸  切子  薩摩焼  写真  活字印刷