コラム: カンボジアを歩く

カンボジアを歩く

キーワード

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カンボジア地図

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カンボジアの自然は、メコン川とトンレサップ湖がつくっている

カンボジアは三方を標高400-1500m の低い山地で囲まれた平原で、気候は高温多湿である。東部の平野を△△△川が北から南へS字形に500kmにわたり貫流し、その水を受けて中央部にトンレサップ湖がある。中央部の平原地帯は沖積土(川が運んできた土壌)からなっており、肥沃な農耕地となっている。東南部は湿潤な低地で、西北部は丘陵地帯である。面積は日本の半分である。

人口は1100万を有する。カンボジア人は、カンボジア以外にベトナムのメコンデルタに100万、タイの東北地帯に200万ほど居住する。カンボジアの少数民族としては、華人系50万、ベトナム系40万、チャム系12万の他に、プノン族、スティアン族、クイ族、ポー族の少数民族がいる。

《A》 メコン

トンレサップ湖は東南アジア最大の淡水湖

トンレサップ湖は東南アジア最大の□□湖で、「湖(トンレ)+大きな(サップ)」という意味である。メコン川とトンレ・サップ川を通じてつながっており、雨季(5月-10月)にはメコンの水を飲み込み、乾季(11月−4月)にはそれをはきだすという自然の調整湖の役割を果たしている。雨季にはメコンの水は10メートル近くも高くなる。

メコン川とトンレサップ湖を結ぶトンレ・サップ川は、雨季には水の流れが川下から川上へと逆流するという日本人には信じがたい川である。湖の周囲は280kmあるが増水期には5倍の面積になり、小河川を通じ遠く奥地まで侵入し、耕作を可能にしている。逆流するメコンの水は天然の肥料をもたらし、魚族の宝庫となる。浅くて栄養分に富んだ湖は世界有数の淡水魚の漁場である。漁師にはカンボジア人は少なくベトナム人やチャム人が多い。

トンレサップ湖は、メコンの水が多すぎればそれを飲み込んでやり、足りなければはきだしてやる調整湖のはたらきをしているが、メコンをアメリカ、水をドル、トンレサップ湖を日本に模す人がいる。

《A》 淡水  
氾濫時のトンレサップ湖
http://www.sue.shiga-u.ac.jp/WWW/kosyo/c-news/news22/c-news22.htm

カンボジアはインドシナのギリシャ

カンボジアはインド文化をとりいれて、1 世紀から15世紀まで絢爛たる都市文明の花を咲かせ、インドシナ半島における文化センターの役割を果たした。インドシナ半島の△△△△(国名)といわれる。しかしそれ以降は、タイ、ベトナムの侵略に苦しめられ、フランスの植民地となり、戦後はインドシナ戦争に巻き込まれ、今なお惨禍は続いている。

《A》 ギリシャ  

カンボジアの別名は△△△△

カンボジア人は、メコン川中流域を原郷とし、河川に沿って徐々に南下して来た。自らの言語を△△△△語と称し、△△△△人と自称することが多い(これは、「日本」と「大和」の関係に似る)。△△△△文化の伝統は、タイやラオスに濃厚に引き継がれている。

《A》 クメール

高い女性の地位

カンボジアは農村国家であり、カンボジア人の生活の基礎は農村にある。カンボジアの家族は核家族が主で、□系制をとっている。結婚後は、新夫婦はしばらくは妻の両親の家に住むか、近所に住むことが多い。財産はすべての子供に均分に相続される。

家族内では女性の地位がかなり高く(ベトナムやタイ、ラオスも同様)、きびしい支配関係はなく、年齢による上下関係が認められる位である。農作業においては、親族間などで相互扶助が行われる。住居は高床式で、メコンの水に依拠した豊かな水田農業を営む。50戸ほど集まり村落を形成するが、農家ごとの独立性は高く、村人同士の紐帯は弱く縦の関係もうすい。

《A》 双

双系制とは無系制のこと

カンボジアは、双系制だが、欧米社会も双系制である。歴史的に豊かな社会は双系制をとる傾向にある。双系制は、父方、母方の両方の□□に無関心なので、いわば無系制といったほうがわかりやすい。

環境がきびしい社会では、指揮系統明確化のために、親族組織は男性型をとる。中国、朝鮮、日本がいい例である。

《A》 先祖  

カンボジア史は五つの時代区分に

カンボジアの歴史は、五つに時代区分される。

@前△△△△△時代  紀元前後− 802  800年間 扶南(ふなん)、真臘(しんろう)
A△△△△△時代   802−1432  600年間
B後△△△△△時代  1423−1863  400年間
Cフランス植民地時代 1863−1953   90年間
D民族国家建設時代  195−       40年間

《A》 アンコール  

扶南は△△△文化の強い影響を受けた

前アンコール時代には、扶南(ふなん)と真臘(しんろう)の2 国が興亡した。扶南(1 世紀頃−7 世紀前半)は、△△△文化の強い影響下に興った国で、その勢威は遠くマレー半島にまでおよんだ。500年間にわたり、インドシナ半島における最も有力な勢力となり、その間インド文化の伝幡に尽くした。扶南の強大な王権を支えた経済基盤は、豊かな農業とローマ、インドから中国に至る中継貿易であった。

王国は進んだ水利技術をもち、運河を掘り、灌漑工事を行って多くの土地を開墾した。プノンペンの東南方を都にし、カンボジア南部、ベトナムのメコンデルタ地帯を中心に栄えた。国名の扶南とはプノンを転写したもので、プノンとは「丘」をさす。扶南は7 世紀半ばに北方にあった同じカンボジア人の国真臘に併合される。

《A》 インド

真臘(6 世紀−802 年)の都は△△△南部

真臘(しんろう)は扶南の属国であったが、7 世紀半ばに逆に扶南を併合した。カンボジアの北に位置する△△△(国名)南部に都を構えていた。

《A》 ラオス

アンコール朝の始祖△△△△△△△2世は、神王思想をつくりあげた

802 年△△△△△△△2 世は、分裂していた真臘を統一し、都をアンコールに移しアンコール朝(802-1432 600 年間)を興した。王朝の始祖△△△△△△△2 世は、王は神の化身(=現人神)であるとする神王思想をつくりあげ、王の権威をいちじるしく高めた。

あとに続いた王たちは、貯水池や灌漑網などの水利事業に力を注ぎ、耕地を広げ、全国に道路網を敷き、宿場を設け、100以上の施療院を建設した。
*ジャヤバルマン【画像】

《A》 ジャヤバルマン

アンコール王国はアンコール・ワットで有名

ジャヤバルマン7 世(在位1181-1218)の時代には、その勢威は絶頂を極め、インドシナ半島をほぼ席巻する大帝国となった。アンコール王国は東南アジアの中でインド化(Indianization)された最大の王国であった。

アンコール王国は扶南、真臘に続き、インド文化を引き続き受容した。歴代の王は△△△△△教、仏教(主として大乗仏教)を信奉した。全王朝を通じ、△△△△教の世界観、王権思想、美術様式にもとづくすぐれた都市、建築物、彫刻が生み出された。代表的なものが、アンコール・ワット、アンコール・トムである。

《A》 ヒンドゥー  

アンコール王朝は△△軍の侵略で崩壊

600年にわたって繁栄したアンコール帝国も、モンゴル軍の圧迫を受けた新興勢力△△(国名)からのたび重なる侵攻や、打ち続く外征や建設事業による国力の疲弊によって、急速に衰退期を迎えた。タイ軍の大侵略を契機に、1432年帝国は都アンコールを放棄、ここに栄華を誇ったアンコール王朝は崩壊の道をたどることになった。

《A》 タイ

国土はタイと△△△△の勢力角逐の場に

1474年カンボジアは、タイのアユタヤ朝の属国となり、18世紀末には北部、北西部をアユタヤ朝に奪われた。カンボジアは、アユタヤ朝の重圧に対抗すべく△△△△と手を結ぶが、逆に18世紀までにメコンデルタ、南部諸州を△△△△のグエン朝に併合されてしまった。こうしてカンボジアは400年にわたりタイと△△△△から挟撃(きょうげき)され、これら2国の勢力角逐の場になり、国威も衰亡の一途をたどった。これが、400年間にわたる後アンコール時代(1432-1863 )である。

《A》 ベトナム  

△△△3 国、フランスの植民地に 

1863年カンボジアはフランスの植民地支配下に組み込まれた(1863-1953 90年間) 。フランスは仏領インドシナ、つまり△△△3 国の経営においてはベトナム中心主義をとり、警察官や役人などの中間管理者としてベトナム人を用い、カンボジアやラオスに対しては愚民政策をおこなった。カンボジア人やラオス人の対ベトナム感情は、こうしたことで今に至るもきびしい。

《A》ベカラ

△△△△△国王、フランスから独立を獲得

△△△△△は、1941年18才で国王に即位、以来フランスからの独立運動の先頭に立ち、1953年に独立を獲得した。王制社会主義と中立主義をかかげ国内建設に力を注いだが、1970年右派クーデターにより追放された。以来カンボジアはインドシナ戦争に大きく巻き込まれた。

《A》シアヌーク

ヘン・△△△△政権、ベトナムの後押しで誕生

1975年ポル・ポト派が政権をとり、極端な共産主義政策を推進し、鎖国、難民、首都プノンペンの無人化、大量虐殺という悲劇を招いた。1975年から1978年の間に、カンボジア人口700万のうち3分の1がポル・ポト派により殺された。1979年ヘン・△△△△(Heng Samrin )政権がベトナムの後押しで誕生し、ポル・ポト派はタイ国境に逃れゲリラ戦を展開するようになった。

《A》サムリン

アンコール・ワットは、世界最大の宗教寺院

アンコールワット【画像】は、世界最大の宗教建築である。材料は砂岩のブロックからなる。12世紀前半にスールヤバルマン2世によって、王自身の霊を祭り、王威を長く後世に残すための霊朝として造営された。アンコール・ワットに限らず、カンボジアの寺院は、王であることの思想的根拠を立証するあかしとして、また自己の統治と支配の成果を誇示するために建立された。したがって王は国中の労働力と技術を傾けて建設をおこなった。

アンコール・ワットは南北1.5km、東西1.3km、幅190m の水濠によって囲まれている。水濠にそって第1 □□が設けられ、その内側に第2 □□、第3 □□がある。中央には高さ65m の塔がある。

《A》 回廊

アンコール・ワットは□□を模型化したもの

アンコール・ワットは□□を模型化したもので、濠(ほり)とバライ(人造湖)は大海を、周壁はヒマラヤなどの山々を表わす。中央の塔は世界の中心とされるメール山(須弥山)を模したものである。ここに神が降り立つとされる。

ここに降り立つ神がすなわち世界を支配するアンコール国王であるというのが神王思想である。(アンコール・トムも同様の思想の下に計画された)。第1 回廊の内壁には古代インドの神話や物語の精緻な浮き彫りが絵物語のように描かれている。1432年に放棄されるまで、8万人が住んでいた。
須弥山の模型
http://opac.lib.ryukoku.ac.jp/HTML/S05CL.html
《A》 世界  

日本人もアンコール・ワットを祇園精舎と勘違いし、参詣(さんけい)

アンコール・ワットは、1432年タイのたび重なる侵攻で放棄された。忘れられたアンコールは、繁殖力旺盛な△△△△△(榕樹、ようじゅ)にたちまちに包みこまれてしまった。△△△△△の根は蛇のように、台石、回廊、塔、石像にまとわりつき、すべてを飲み込んでしまった。深々と眠っていたアンコールが世界の前に再び顔を出すのはそれから400年後である。

御朱印船貿易が盛んであった17世紀に、何人かの日本人がジャングルの中のここを祇園精舎(釈迦が住んだ仏教最初の僧院)と思い参詣している。1632年将軍家光の命を受けた森本右近大夫が父の菩提を弔う(来世の幸福を祈る)ためここを訪れたことが石柱にしたためられた墨書に残っている。

*沖縄 名護のガジマルって、ヌー(何) ヤイビーガ(ですか)?

《A》 ガジュマル

アンリ・ムオーがアンコール・ワットを紹介

1860年フランスのアンリ・ムオーはジャングルの中に放置されたままになっていたここを訪れ、全世界に紹介した。彼はその旅行記の中で、「地球上で、この建築の傑作に匹敵するものは、多分ないし、決してない」と述べている。アンコール・ワットとは、ワット(寺院)のあるアンコール(都)という意味である。「アンコール」は△△△△△△△語のナガラ(都)に由来する。

《A》 サンスクリット

アンコールの浮き彫りは、彫像に入活するための儀式

アンコールの彫像(ちょうぞう)は、インドの神々のような神そのものではなくて、王や王族が神となったもので、彫像の名も本人の名と神の名をあわせたものになっている。これは、王が神であるとする□□思想にもとづく。

また回廊を飾っている浮き彫り(reliefレリーフ)は、単に美学上の目的や参詣者のために彫られたのではない。これらは地上に神の世界をつくりだし、彫像に入活するための儀式のひとつであった。それゆえ人目につかない場所や見えない所にも入念に刻み込まれた浮き彫りを見出だすことができる。

《A》 神王

アンコール・トムは「大きな都」という意味

アンコール・トムは、カンボジア民族が築き上げた偉大な都市文明である(1200年頃)。△△△△に占領されていた都を奪回したジャヤバルマンが、造営したものである。トンレサップ湖の北方に位置した。アンコール・トムはアンコール朝の都で「大きな都」という意味である。中心にバイヨン寺院がある。

アンコール・トムには、三島由紀夫の同名の小説にもなった「癩王(らいおう)のテラス」がある。これらの壮大な伽藍(がらん=僧院)と寺院、秀麗な彫刻、浮き彫りは当時の高い文化水準を示している。街は、1 辺3 km高さ8m の城壁に囲まれた正方形の城壁都市で、整然とした道路網、上下水道を備えており、すぐれた計画都市であった。
*アンコールトムとアンコールワットの位置図

A》チャンパ

歴代の王が治水に心を砕く

城壁の回りは満々と水をたたえた濠になっている。近くにはバライと呼ばれる人造湖が幾つもある。大きいのは、8km×2kmの広さを有する。いかに歴代の王が□□に心を砕いたかが知れよう。なおアンコール・トムの北東20kmの所にバンテアイ・スレイ寺がある。967年に建立されたもので、アンコール遺跡群から孤立して森林の中にある。アンコールの荘重巨大な男性的美術に対し、バンテアイ・スレイ寺は繊細華麗で女性的な趣がある。東洋のモナリザといわれる女神像も安置されている。

《A》 治水

アンコール・トムの中心は△△△△寺院 

都市アンコール・トムには中心部に△△△△寺院がある。△△△△寺院は13世紀始めに完成した。高さ45m の岩山の頂上部には4 つの長さ2m の巨大な神王面が、見るものの心を射すくめるように「バイヨンの微笑」を浮かべている。

これは王の権威が全国に及ぶことを示している。さらにこの岩山の回りには高さ2m の200余りの微笑を浮かべた人面が表されている。回廊には浮き彫りが施されている。野獣や魚を料理したり、闘犬や闘鶏を楽しんだりしている当時の人々の日常生活や戦争の様子をしのばせる。しかし最も多いのが、当時の宿敵チャンパとの戦闘場面である。いかに戦争にあけくれていたがわかる。

A》バイヨン
バイヨン寺院

プノンペンは「ペン婦人の丘」という意味

プノンペンはカンボジアの首都である。「ペン婦人の丘」という意味である。洪水の時流れついた仏像をペン婦人が丁重に安置したことに由来する。プノンとは高さ数十メートルの□をさす。カンボジア平原には至るところにプノンがある。雨季にメコンの水が氾濫すると、低平な大地は水浸しになる。そのようなときの避難所がプノンである。また神王思想によれば、山頂は神々が降臨する聖なる場所でもある。プノンはカンボジア人には特別の意味をもつ。

《A》 丘
プノンペン市街

女性の服装

女性はブラウスにサロンをつける。サロンは円筒状のロングスカートである。一枚の布を輪型にぬいあわせたもので、腰の回りにあまった布地をたくしこむ。頭上にクロマー(布切れ)をつけて働く。晴れ着の民族衣装の晴れ着は△△△△△と呼ばれる。

《A》サンポット
サンポット【画像】

ヒンドゥー教、大乗仏教から上座部仏教へ

カンボジア人は古くからヒンズー教、大乗仏教を信奉してきており、カンボジア美術といえば、これらの宗教に関する石彫の神像や仏像をさす。15世紀にタイの属国となって以来、□□□仏教を信奉するようになった。 

《A》上座部

野菜の△△△△は、カンボジアから

野菜の△△△△は、カンボジアから伝来したので、この名がある。また、きざみタバコを吸う竹製の用具をキセルというが、カンボジア語で「管」という意味である。

《A》 カボチャ

△△△信仰

△△△(男根)は、シバ神の仮の姿と考えられ、大地に精をふりまき、豊かさをもたらすと信じられている。

《A》リンガ
*リンガ【画像】

魚醤△△△△△

△△△△△とよばれる魚の練りものは、タイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、日本の醤油にあたる。

《A》プラホック
プラホック 【画像】

カンボジアのカミ様△△△△

△△△△は、日本の土地のカミ様、山のカミ様のようなものである。ネアクは「…様」、タは「ご先祖」という意味で、祖霊崇拝的な意味をも有する。本尊は小石であることが多く、この石にネアクタ神が宿っていると考えられる。  

《A》
*ネアクタ 【画像】


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カンボジアを歩く 問題

  1. カンボジアの自然は、△△△川とトンレサップ湖がつくっている。
  2. △△△△△△湖は東南アジア最大の淡水湖である。
  3. カンボジアはインドシナの△△△△(国名)といわれる。
  4. 扶南(ふなん、1 世紀頃−7 世紀前半)は、△△△文化の強い影響を受けた。
  5. 802年アンコール朝を興した△△△△△△△2世は、王は神の化身であるとする神王思想をつくりあげた。
  6. △△△△△時代は、802年から1432年まで600年間続いた。
  7. アンコール王朝は1432年△△軍の大侵略を契機に、崩壊の道をたどることになった。
  8. タイ軍の侵略で見捨てられたアンコール・ワットは、繁殖力旺盛な△△△△△(榕樹)に包みこまれてしまった。
  9. カンボジア人は15世紀にタイの属国となって以来、□□□仏教を信奉するようになった。
  10. △△△3 国は、1863年から90年間フランスの植民地になった。 
  11. △△△△△前国王は、1953年フランスから独立を獲得した。  
  12. ヘン・△△△△政権は、1979年ベトナムの後押しで誕生した。  
  13. △△△△△・ワットは、世界を模型化した世界最大の宗教建築である。
  14. 野菜の△△△△は、「カンボジア」に由来する。
  15. カンボジアの首都△△△△△は「ペン(婦人)の丘」という意味である。

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