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マハティール

( 「マレーシアのマルチメディア・スーパーコリドー」より)
マハティール(Mahathir bin Mohamad)は、1925年マレーシア北部のアロースターという州都に生まれた。7)1953年マラヤ大学医学部を卒業した。在学中からマレー民族主義者として政治活動に情熱を傾けた。また新聞にも政治問題についてしばしば投稿する理論家でもあった。勤務医を経て1957年に開業医となった。1964年に政界に進出し、下院議員となった。1969年にラーマン首相の対中国系民族への無策を痛烈に批判し、UMNO(アムノ、連合マレー国民組織)を除名された。

1969年5月13日にマレー系と中国系の間に死傷者数千人の人種暴動事件がクアラルンプールで発生した。この事件を契機に、マハティールは経済格差の是正なしに、民族間の協調はあり得ないとして、1970年に『マレー・ジレンマ』をあらわした。この書は、タブー視されていた人種問題を正面から取り上げていたために発禁処分となった。同書の内容は、その後マハティール政権誕生とともに、マレーシア政府公認のものとなった。 

1972年には、UMNOへの復帰が認められ、1973年にはマレーシア食品工業公社の会長に迎えられ、高い経営手腕を買われた。1974年に教育大臣に、1976年には、副首相に抜擢され、1981年にマレーシア連邦第4代首相に就任した。その強力なリーダーシップに対しては根強い反発もあり、1988年には与党UMNOの分裂をまねいたが、逆に反対派をおさえこみ、1990年、1995年の総選挙ではマハティール支持の与党連合、国民戦線(NF)を勝利に導いた。8)

マハティールはこの17年間、政治と経済の両面に渡り、強力な指導力をしめしてきた。政治面ではブミプトラ政策を軸に多民族国家のマレーシアをまとめ上げ、経済面ではルック・イースト、外資導入などの振興策を実施して、マレーシアを途上国の優等生におしあげた。ブミプトラ政策、ルック・イースト政策、マレーシア株式会社構想、「ビジョン2020年」などいずれも時代を先取りするビジョンであった。

マレーシアが1957年に独立したとき、この国は民族問題を解決できず、民族抗争を続け、貧困のままで終わるだろうと識者は思った。「40年後マレーシアは誰もがうらやむほどの経済成長を遂げ、民族の融和も果たした」9)のは、ひとえにマハティールの強力な指導力とカリスマ性の賜である。

マハティールの合理的、理論的な思想と行動は、従来のマレーシアの指導者とは大きく異なる。その背景には、次のような要因があることが考えられる。

・ 医学博士であること。
・ 都会生まれであること。
・ インド系との混血であり、中国系の血が入ってないこと。
・ 欧米留学の経験がないこと。これまでの首相経験者はすべて英国留学経験者であった。
・ 名門の出でないこと。
・ イスラム教徒であること。

医学博士マハティールは、その著『マレー・ジレンマ』の第3章「マレー人種に関する遺伝と環境の影響」のなかで、大胆にも、農村マレー人は劣等人種であるとし、その原因は、農村部において、交通が閉ざされていて、村同士の行き来がないので、近親結婚が多くなり、しかも早婚であるからであるという。都会生まれであり、彫りの深い端正な顔から想像されるごとく先祖にインド系の血が入っているマハティールならではの意見であるといえよう。 

「町の人々は、農民よりは世慣れており、よく組織されていた。ラジャによって保護を受けた職人、学者、商人そして行政官達が緊密に結ばれた共同体に集まってきた。そこは、マレー人の人口の大半を占める平地農民のものとははなはだ異なった共同体であった。町の住民と農民との交流は限られていて、相互の結婚もほとんどなかった。」10)「都市マレー人の性格はさらに多様化し、彼等は時代の変化にうまく対応していくことができた。あるものは、異人種と通婚した。…。このような異人種間の通婚はマレー人の血統を多様化した。」11) 『マレー・ジレンマ』の第7章では、農村マレー人を都市化させることの重要性を説いている。マレーシアでは、交通網が整備されており、バス代から飛行機代に至るまで、近隣諸国と比べても安く、外国人旅行者にもありがたがられているが、それは農村マレー人男女の交際の範囲と機会を拡大し、遠くの男女が結ばれるチャンスを増やそうとするマハティール思想の一端であることを知る人は少ない。

『マレー・ジレンマ』の第3章「マレー人種に関する遺伝と環境の影響」のなかで、マレー人に「建設的な保護策」が必要であると主張しているが、これが現在実施されているブミプトラ政策につながっている。ブミプトラ政策とは、マレー人優遇政策のことで、マレー人の経済的地位の向上をめざす政策で、ブミプトラと他の民族との所得不均衡の是正、雇用構造の再編、種族間の資本所有の再編、ブミプトラ企業の育成をめざしている。会社、官庁の採用や大学の入学定員もマレー系6 割、中国系3 割、インド系1 割の人口比率、あるいはマレー人にはそれ以上の比率でなされる。12)日本に来るマレーシア人に中国系が多いのは、高等教育の機会がマレーシア国内では求めがたいからである。

大学教育においても、かつては英語によっていたが、現在ではマレー系に有利なようにマレーシア語が推進されている。ただ、このマレー語学習の強制と高等教育のマレー語化には、非マレー人の反応は屈折したものがある。ブミプトラ(bumi peutra)とはサンスクリット語で、「土地の子」という意味で、中国人、インド人のような移住民でなく先住民族、土着民族としてのマレー人を指す。このブミプトラ政策13)では、常に中国系が締め出される傾向にあり、マハティールが中国系にきびしいのも、無意識的にではあれ、マレー系、インド系の血を引くからであろう。

マハティールは、国王の法案拒否権などの権限やスルタンの権限を縮小し,立憲君主制を確立しよう強い熱意を示しているが、これも前の3代の首相とは違い、名門の出でなく平民出身であることも関係している。

マハティールは、イスラム教徒(ムスリム)でイスラム重視を打ち出しているが、これは中国系の中国文明、インド系のインド文明に対抗する唯一の武器であるからであろう。彼は、自由も博愛も平等もイスラムの教えに入っている、とし、それはキリスト教の専売特許ではないとする。イスラム大学や無利子運営のイスラム銀行も設立した。

ところで、イスラムでは、利子禁止法があり、利子は、労せず他人の労苦の結晶である財富をむさぼるものとして、禁止されている。ましてや「投機」は悪そのものである。マハティールが、市場経済主義を痛烈に批判し、通貨取引の規制を訴えるのも、投機を悪とするイスラムの教えに基づいている。世界60億人のうち10億人を占めるイスラム教徒は彼の主張を全面的に指示している。

ただマハティールは、現在のイスラムのあり方を全面的に肯定はしていない。彼のイスラム批判にはきびしいものがあり、また国家の近代化という面でイスラムの教義と衝突することがあり、その面で保守的イスラム教徒から強い反発をまねいている。たとえば、イスラム信仰の強いクランタン州では議会では、マハティールの率いるUMNOではなく、イスラム政党が多数を占めている。

ルック・イースト政策の背景にも、欧米留学の経験がないことで、かえって欧米を客観視できたことは否めない。「今やヨーロッパ文明は衰退の兆しが、はっきりしているのである。道徳心は低下し、倫理観も荒廃して、社会に実害を及ぼすようにさえなってきている。今、ヨーロッパの新しい価値観の基本となっているのは、個人の権利である。たとえ、それが社会や国家の利益を損なうものであっても、個人の権利は大切に守られ、誰もそのことを避難しようとはしない。」14)マハティールには、7人の子供がおり、息子1人と娘2人が元日本留学生である。

ルック・イースト政策とは、これまでの西欧一辺倒主義をあらためて、日本や韓国に学べという政策で、1981年提唱した。日本などの東洋の労働倫理、経営の方法、組織の方が西欧にまさるとし、東を向いて学ぼうというものである。以来、日本を頻繁に精力的に訪問している。15)ルック・イースト 政策により、これまでに日本に3千人以上のマレーシア人が留学した。また1986年には100%外国資本による進出を認める画期的な外資導入政策を決定した。これにより、約1000 社にわたる日本企業がマレーシアに進出した。

マハティールは、日本を高く評価している。日露戦争、高度成長はアジア人に大きな自身を与えてくれたものであり、日本には、アジアの自身の源泉であってほしいとのべる。ただその「アジア主義」とは、日本中心主義ではなく、東南アジアの土着文化、イスラム文化、中国文化、インド文化を尊重することであることを強調する。

マハティールは、1991年には、アジア諸国だけによるEAEC(East Asia Economic Caucus)を提唱するなど、欧米に対して「アジアの論理」を主張する政治家として世界的な存在として注目を浴びるようになった。 G15も、マハティール首相の発案になるものである。G15とは、非同盟諸国会議に属する主要途上国による定期会議である。途上国が南南協力を推進し、先進国に対して統一的な立場をとり、発言力を強化することが目的である。1990年に第1回会議がクアラルンプールで開催された。1997年にも、クアラルンプールで開催され、通貨取引の規制を正式議題とし、各国の首脳たちはマハティール首相を強く支持し、IMFに対する規制策提案をおこなった。
このように、マハティールは、オピニオンリーダーとしてアメリカの覇権主義に反対し続けて来ており、EAEC構想など、アジア新機軸の確立を主張し、アジア的民主主義の正当性を国際世論に訴え続けてきた。また、拡大アセアンをはじめ、アジア諸国の冷戦後の新秩序づくりを主張してきた。そのため、アメリカのエスタブリッシュメントから危険人物呼ばわりされており、逆に新興途上国では、英雄視されるようになった。

マハティールは、欧米の価値観にアジアのそれを鋭く対置する。

・ 合意と集団の意志を重視するマレーシア型民主主義が、アジア流発展路線であろう。
・ 社会が個人に優先する社会、強靱な家族制度が福祉の担い手となるアジア型の社会を建設すべきである。
・ 「食べ、飲み、そして楽しむべし」というエピクロス派の快楽主義哲学に相当するものはマレー人にはない。人生はうたかたであり、来世への準備期間である。したがって、この世の生活は、楽しみと快楽に専念するのではなく、真剣な宗教的思索と宗教の指し示すところに服従することに身をささげることにある。
・ アジアは、他を犠牲にしない反映をめざすべきである。欧米の反映は非欧米の犠牲の上になりたったものである。
・ マレーシアの路線は、ルック・イーストとイスラム重視である。

マハティールは、マレーシアの諸悪の根元はイギリスの植民地主義にあるとして反英国意識が強く、欧米中心主義、欧米の価値観には次のように批判的である。

・ キリスト教徒たちは物質的な価値観によって、精神的な価値観を破壊してしまった。欧米文明を受け入れないものは、封じ込める。欧米的価値観だけが世界の中心であるとし、アジア的なものは、古いもの、田舎臭いもの、前近代的のもの、封建的なものであるとして排除する。
・ 世界は、過去何百年もユダヤ・キリスト教の一元支配下にあった。これを文化的多極主義に変えなくてはいけない。
・ 一つのイデオロギー、一つの体制ですべてが解決するという普遍主義、欧米中心主義は限界に来ている。
・ 欧米の過ちは、ただ一つの文明、ただ一つの価値体系しかないと考えていることである。
・ 資本主義も社会主義も唯物主義を土台にしており、精神的なものが欠落している。
・ 欧米の道徳心は低下し、倫理観も荒廃している。個人の権利のもとに社会を損なっている。
・ 欧米の価値観は快楽主義的物質至上主義である。
・ 現代は欲望肥大と自然破壊を無限に広げている。
・ 欧米流人権、個人主義は多くの弊害を生んでいる。
・ グローバル化と規制緩和は、アメリカなどの先進国のためにしかならない。
・ 冷戦後の世界の対立は、イデオロギーから文化の対立に移った。

彼は、欧米流市場経済主義をとるIMF(国際通貨基金)に対しても、批判的である。現在、IMFへの信頼は、ロシアへの5年間の介入にも拘わらず、ロシア経済の崩壊で全世界的に揺らいでいる。IMFの経済危機克服のための性急で画一的な処方箋には、批判が噴出している。金融市場などの構造改革についても、各国の歴史や文化、発展段階を考慮すべきであるのに画一的である。IMFとその強力な支持者である米財務省の威信は失墜している。為替防衛のための高金利政策、きびしい財政緊縮政策、経済危機を政治不安におとしめてしまうやり方のために、専門家からは、IMF限界説や廃止論もでている。

インドネシアでは、失業者の増加などによる社会の混乱をまねき、不満が噴き出ているのが現状である。IMFは、タイを経済改革の優等生だと称しているが、タイの経済はよくなっていない。失業者は、1日2000人、すでに300万人をこえ、トンネルの先がいまだに見えない。

マハティールはIMFを次のように批判する。

・ IMFは、事実上米国の機関で、米国の利益のために働いている。
・ IMFは市場経済万能主義である。
・ 市場原理を至上のものと考え、自由放任、自由競争を礼賛するアメリカ型経済モデルは、シカゴ学派を中心とする新古典派経済学の信奉者たちによって形成されている。
・ シカゴ学派が主導する市場経済万能の新古典派経済学アプローチに代わる第三の道を探さねばならない。
・ 「われわれは、アジア社会は自らの発展と前進を目指すに当たって、社会正義と公正さを常に心がける必要があると考える。…完全な市場システム経済が採用された場合には、無法のジャングルが出現するような状態であってはならない。われわれは、極力、アジアの伝統的な村落社会に見られる社会的慣習を尊重し、これに沿って生きる行き方を維持したいと考える。常に人間の顔をもった資本主義を機能させる必要があるわけである」16)

マハティールに賛意を表する途上国の人は多い。17) 1国の経営方式にも、会社と同じように、同族支配でうまくいく場合もあれば、ビネボラント・ディクテーターが必要な場合もあれば、株主第一主義でうまくいく場合もあれば、ゴトンロヨン式が適している場合もある。アメリカ式経営、アメリカ式価値観が唯一ではない。18)

このことは、マハティールが言うとおりである。また、政府の役割は、国の発展段階によって変わるべきである、とのマハティールの認識も正しい。GNPが、マレーシアのように5000ドルまでは、家父長的な権威主義は妥当であろう。この段階で、西欧式の自由や民主主義を導入したら、ルワンダのような無政府状態になってしまわないとも限らない。欧米が、マレーシアより30年進んだ今の段階の価値観、民主主義、自由を開発途上国に押しつけるのはよくない。

しかし、シンガポールは、GNPが1万ドルをはるかに超えているにもかかわらず、インターネットをはじめとして、規制がありすぎる。日本にしても、GNPが3万ドルになっても、中央集権、権威主義、許認可規制を続けている。19)これは、政府が、国の発展段階を認識していないか、国民を信用していないか、権力を手放したくないからであろう。

マレーシアも、1万ドルを超えたときには、このままの状態ではよくない。ブミプトラ政策を廃止の方向にもっていき、政府の規制を大幅に緩和すべきであろう。マスコミにしても、タイのBangkok Post やNationにくらべると、マレーシアのStarなどの新聞は、国内の報道が抑えられており、近隣諸国に関する情報量もはるかに少ない。20)いまだに、4人以上の政治的集会は届け出制である。

現段階で、マハティールが誤認していると思われることがある。それは、マレーシアの発展段階度、民度である。比喩的に言えば、マレーシア人の国民年齢は、マハティールには7、8歳にしかみえないようだが、実際はすでに16、7歳になっている。マレーシア独自のやり方で国民を教育するのはいいが、規制のしすぎはよくない。これは、あたかも日本政府が、子供が40歳になろうとしているのに、まだ自主性を与えていないようなものである。

ところで、マハティールは、現今の公害、環境破壊についてどう考えているのであろうか。周知のように、近代思想の方向を定めたのはデカルトの機械論的世界観とベーコンの自然支配的世界観である。人間と自然を対立させる二元論で、人間は自然を奴隷のように支配することができるという考えである。デカルトの機械論的世界観とベーコンの自然支配的世界観が結びついて、公害、環境破壊、資源枯渇を生み出し、自然は、人間の暴力、搾取に耐えかねて急速に崩壊している。デカルト、ベーコンの人間至上主義は、キリスト教やギリシャ哲学といった西洋文明の本質に根ざしている。バイブルでは、人間には精神があり、他の動物を支配する権利がある、とされている。また、プラトンなどのギリシャ哲学者も人間は精神を有する故に、万物の長である、と考えた。

世界は、今までの人間至上主義的な近代哲学ではどうにもならないところまできている。人間のことだけを考えていた倫理学も変わらねばならず、経済学も、環境問題を真剣に取り入れてものでなければならない。21)マハティールの深く信奉するイスラム教も、一神教で人間至上主義的なところがある。上の呼びかけにマハティールは、どう答えるか、尋ねてみたいものである。

注)
7) マハティールの名前:Mahathir bin Mohamadとは、「ムハマドの息子のマハティール」と言う意味である。binを省略してMahathir Mohamadとよばれることが多いが、Mohamadは父の名であって、マハティールの姓ではない。したがって、文献目録の著者名にも欧米風にMohamad, Mahathirなどと記してはならない。新聞には、Dato' Seri Dr Mahathir Mohamad と記載されることが多いが、Dato' Seriとは彼の出身州ケダ州の最高位の爵位である。
8) マハティールの略歴:
1925年 誕生(12月20日)
1946年 反マラヤ連合案の政治活動開始
1947年 マラヤ大学医学部入学
1953年 医師として活動開始
1956年 ハスマと結婚
1957年 クリニックを開業
1964年 第2回総選挙、マハティール下院で当選
1969年 第3回総選挙、マハティール落選
    クアラルンプールで種族暴動(5.13事件)
    マハティール、UMNOを除名さる
  1970年 『マレー・ジレンマ』を出版
  1972年 UMNOに復帰
  1973年 マレーシア食品工業公社会長に就任
  1974年 教育大臣に就任
  1976年 副首相に就任
  1981年 首相に就任。ルック・イースト政策発表
  1982年 国際イスラム大学の設立構想を提案
  1983年 マレーシア株式会社構想発表。民営化構想発表
  1986年 外資に関するガイドライン発表。『挑戦』を出版
  1987年 党大会でマハティールの連合が勝利
マハティール提唱の「南委員会」発足
  1990年 南側サミットを主宰
EAEC構想提案
  1991年 「ビジョン2020」構想を提唱
  1992年 第2回途上国環境相会議を主宰
   サルタン関連の憲法改正案提出
   APEC首相会議ボイコット
   マルチメディア・スーパーコリドー構想発表。
  1998年  The Way Forwardを出版
9) Mahathir Mohamad, The Way Forward, Weidenfeld & Nicolson,1998.表紙裏の解説部.
10) モハマド・マハティール『マレー・ジレンマ』勁草書房、1983、p30-31.
11) 同書『マレー・ジレンマ』勁草書房、1983、p38.
12) マレー系、中国系、インド系:マレー種族は、紀元前数千年前から雲南地方から渡来 したといわれる。マレーシアは、1800年代後半まではマレー人しか存在せぬ単一民族国家であった。しかしイギリスの植民地政策により、1800年代後半から中国人が錫開発のために、インド人がゴム栽培のために大挙招来された。マレー人は、大部分が農村に暮らすようになった。現在では実質的に華人系がマレーシア経済を掌握する。華人系の多くは19世紀に錫鉱山の採掘者として、インド系はゴム園労働者として、渡来した。こうして初期には、稲作=マレー人、錫鉱山=中国人、ゴム園=インド人という民族的な職業区別が生じた。
13) ブミプトラ政策:このブミプトラ政策により、わずか2%ほどだったブミプトラの資産保有比率は、最近では18%まで伸びてきている。ブミプトラ政策は、民族間の経済格差を埋め、政治的・社会的な安定を確保してきた。しかし、一定の成果が出た段階で廃止し、マレーシア人をすべて平等に扱うようにしないと、国際競争に勝てないであろう。このままブミプトラ政策を継続すれば、結局はマレー人に傲慢と怠慢を生みかねない。常に中国人が不利になるという状況はそろそろ改めるべきである。「マレー・ナショナリズム」のために、中国系の活発な経済活動を阻害してはならない。
14) モハマド・マハティール、前掲書、pp264-265. 
15) マハティール首相の訪日:マハティール首相は次のように頻繁に日本を公式、非公式に、訪問している。(日本マレーシア協会新井卓治氏の資料より)
1983年1月、1983年11月、1984年10月、1985年7月、1986年10月、1987年5月、1988年4月、1988年10月、1989年5月、1990年4月、1990年11月、1991年12月、1992年6月、1992年10月、1993年5月、1993年10月、1994年10月、1995年5月、1995年11月、1996年2月、1996年5月、1997年1月、1997年3月、1997年7月、1997年11月、1998年6月.
16) 坪内隆彦『アジア復権の希望 マハティール』亜紀書房、1994、p15.
17) IMF批判:筆者がマレーシアで会ったパキスタン人は、概略次のように語った。「アジア危機は米国によって仕組まれた乗っ取り劇である。ジョージ・ソロスみたいな投資家集団が短期資金を大量にかざして、切り込み隊長として乗り込んでくる。すると、現地のカネはバブル状態になる。頃合いを見計らって、資本を一気に引き上げる。経済がガタガタになる。今度は、ムーディーズみたいな格付け機関がきてかく乱する。最後にはIMFが進駐軍よろしくその管理にやってくる。その後、日本企業は、引き上げ米国の企業が進出する。米国はアジアにおいて日本に主導権をもたせたくないからである。」
また、タイの英字新聞にも読者からの概略次のようなIMF批判の投書が掲載された。「IMFは、消防夫ではなく放火犯である。IMFの歴史は失敗の歴史である。1965年から95年にかけてIMFが融資をした89カ国のうち、48カ国はno better offであり、32カ国は以前より貧しくなったいる。今やIMFは国際的な脅威となっている。IMFは、閉鎖的、秘密主義的で無能である。メキシコやアジアの経済危機を予見できず、危機が起こったときには適切な対処もできなかった。」Nation, 1998-7-24.
 実際、IMFのタイでの対応の問題点は以下のように言えよう。緊縮的マクロ政策によりマクロ経済を一層悪化させた。金融部門の脆弱なタイに資本移動の自由を許した。タイの経済危機を伝染させない対応策を採りながら、危機を他国へ伝染させてしまった。
18) 大前研一『アジア人と日本人 マハティール マレーシア首相との対話』小学館、1994、p97.
 実際、アメリカ社会は、普遍的というよりも特殊性に満ちている。cf.佐伯啓思『アメリカニズムの終焉』TBSブリタニカ。
19) 同書、p94.
20) 報道の規制:筆者の滞在中にもマレーシアの有力紙であるUtusan Malaysia紙の編集長ジョハン・ジャハール(Johan Jaafar)とBerita Harian紙のアーマッド・ナズリ・アブドゥラ(Ahmad Nazri Abdullah)が辞職した。両氏は、アンワール副首相に近い立場にあった。1987年には、4紙が閉鎖においこまれ、100人以上の関係者が逮捕されたこともあった。
21) 伊東俊太郎・安田喜憲編『草原の思想・森の哲学』講談社、1993、pp.34-37. 

                                 

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