モンゴル、蒙古のページです。
エンフボルド首相
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(2006年3月29日)
チンギス・ハンは1206年にモンゴルを統一しました。モンゴルは、2006年にモンゴル建国800周年を盛大に祝います。ソ連体制下の時は、チンギス・ハンはソ連に迷惑をかけた者として、チンギス・ハン崇拝は抑圧されていました。
日本政府は2006年を「日本におけるモンゴル年」にしています。モンゴル政府は2007年を「モンゴルにおける日本年」にします。
堺屋太一の「チンギス・ハン」も日経新聞で連載されています。モンゴルブームがしばし続きそうです。
エンフボルド首相は2006年1月に就任したばかりで、初の外遊先として日本をえらびました。
首相は、1964年生まれの42歳で、モンゴル国立大学で経済学を学びました。ウランバートル市長を経て、 2006年1月に首相になりました。
モンゴルにおける対日世論調査 好きな国は第1位アメリカで42%、第2位日本で33%です。中国は6%、ロシアは8%で、好かれていないことがわかります。外務省
旭鷲山(きょくしゅうざん)
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(2006年3月30日)
白鵬が大関に昇進しました。 柏戸の「柏」と大鵬の「鵬」をもらった縁起のよいしこ名です。ここまでこれたのは旭鷲山の陰の力があってこそです。
*大鵬の名は「幸喜」といいます。皇紀2600年(1940年)にちなんでつけられました。立派な日本人になるようにとの願いからでしょう。大鵬の父はウクライナ人です。王貞治も同年生まれです。
白鵬は大相撲を目指して来日しましたが、やせっぽちの彼を受け入れてくれる部屋はありませんでした。「明日は帰国」という日、みかねた旭鷲山が自分の親方に懇願し、親方は宮城野部屋に受け入れてもらうようにしました。宮城野親方は期待をしていませんでした。
旭鷲山は、初のモンゴル出身力士として来日しました。日本の生活習慣に馴染めず脱走事件を起こしたりしましたが、多彩な技で観客をわかしています。モンゴルでは英雄で、モンゴル出身力士の取りまとめ役をしており、政府関係のイベントにはモンゴル力士代表として活躍します。
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(2006年3月30日)
堺屋太一は、アメリカは第2のモンゴルだといいます。
いまのアメリカは、モンゴルの3つの特徴をそなえる第2のモンゴルです。モンゴルは、平和とは戦争と戦争の間のしばしの休憩時間と考え、
チンギス・ハンの理念「地に境なく人に差別なし」こそ、グローバリズムの先駆けでした。ですから、21世紀世界の今後をここから占うことができます。
時代が下ると、宗教による差別や信仰にのめり込むことによる経済破綻で滅亡への道を歩みます。世界帝国は、「正義」を押しつけはじめると破綻にむかうようです。
(2006年4月2日)
モンゴル人は「蒙古」とかかれるのを好みません。「蒙古」には「無知で、古くさい」という意味があるからです。
狄(てき)とは、モンゴル人を含め北方の異民族をさすことばですが、「犬のように中国文明を知らず、犬のように剽悍(ひょうかん)な群れ」といった意味合いがあります。
かつて中国人は中華文明圏の外の国をけもの偏などの悪字でよびました。異国を東夷西戎南蛮北狄(とういせいじゅう なんばんほくてき)とよび、文化のない化外(けがい)の地とみなしました。そこに住む民族にたいしては、羌(きょう)、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、貊(ばく)などの悪字をあてました。中国で「モンゴル学」や「日本学」が盛んでなかったのは、化外(けがい)の民には文化や文明があるはずがないと思っていたからでしょう。
司馬遼太郎『モンゴル紀行』朝日新聞社
日本をあらわす倭には「みにくい」という意味もあります。 日本は、のちに「倭」と通じる「和」の字に「大」をつけて「大和」と書くよう定めました。
(2006年4月4日)
韓国、ベトナムなどはミニ中国とよばれます。漢民族の習俗、宗教、文字、衣服、姓などを好んで取り入れました。日本も似たり寄ったりです。しかし、モンゴル人は中国文明を低く見ます。一切興味を示しません。姓がないのも中国文明を拒絶した結果です。
モンゴル人は中国内に元帝国をつくりましたが、そのときも同様です。元帝国は、官僚に等級をつけました。1級が遊牧民族のモンゴル人です。2級は商業民族のアラビア人やイラン人です。農業民族の漢民族は3級でどんな秀才でも事務員おわりでした。
遊牧民族にとって、農耕とは自分たちの牧草地に勝手にクワを入れて牧草地を破壊するゆゆしき行為です。
遊牧民族のモンゴル人にとって、クワをもって大地を耕す人は蟻のように見えるのかもしれません。わたしは学生時代、運転手をしていたことがあります。ある日、ミゼットから大型トラックに乗り換えました。道ゆっく人を2階の窓から見おろす感じになりました。用心しないと、見おろすことが即「見下げる」(=look down upon )ことになってしまいがちだな、と思いました。
元王朝 ウィキペディアの「優れた記事」
(2006年4月4日)
モンゴル軍が強かったのは、情報力によるところが大です。ヨーロッパを征服するにあたって、モンゴル側は相手の軍装備、政情、経済状況などをくわしく調べていました。イスラム商人や旅行者から情報を収集し、諜報員も派遣していました。(『堺屋太一が解くチンギス・ハンの世界』)。エシュロン などを駆使するいまのアメリカのようです。
ただ、遊牧民族モンゴル人は東洋の海洋気象にはうとく、モンゴルの伝統にしたがって天高く馬肥ゆる秋に日本を攻めました。文永の役は1274年11月4日、弘安の役は1281年8月16日におこなわれましたが、フビライ・ハンのモンゴル側はいずれも台風にはばまれてしまいました。
馬や羊は、春に子供を生みます。気候が暖かくなり、やわらかい若芽が生えてくるからです。この時期には動物の子育てに時間をさかざるをえません。
モンゴルの日本襲来を元寇(げんこう)といいます。モンゴルは1271年から1368年まで中国に元王朝をたてました。「寇(こう)」とは「攻めてくる敵」という意味です。
ルースキー チャンコロ マンダリン キタイ ウェノム
岡田英弘 ウィキペディア
モンゴル語 ウィキペディア
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馬 mare 羊 美 豚 家
馬をおみやげにもらいました。 国章に馬 mare 梅

