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コラム:沖縄を歩く #4の目次 です。 沖縄を歩く 総目次
| ◆琉球語とヤマト語は対等:ことば (#113,2004年2月) |
![]() 琉球語の5大方言地図(南が上) (メモ:幅500ピクセル) |
| ▼ 日本語は琉球語と内地の日本語、ヤマト語からなります。 琉球語の方が、古い形を残しているので図では、琉球語を上にもってきました。 言語の系統を論じる際、話者の数や面積などは関係ありません。 ヤマト語は、東部方言と西部方言に2大別されます。 |
琉球語の系統 琉球語の方が日本語の本来の形を残しています。 |
| ▼ 琉球語は5大方言からなります。古い形を残している方言から列挙しました。 琉球語は、ヤマト政府の政治形態に組み込まれて1世紀たらずしかたっていず、琉球語とヤマト語は外国語のようです。 ▼ 宮古、八重山と沖縄本島では、青森と薩摩のように、ことばは通じません。300キロも離れてり、その昔交通手段もなかったので当然です。 ▼ 沖縄本島、奄美は平安時代以降ヤマトの影響を受けました。 与那国、八重山また奄美は奈良時代以前の古語を残しています。 ▼ ウィキペディアの日本語の方言では、琉球語を、 北琉球方言 南琉球方言 与那国方言 に3大別して、与那国方言を大項目にしています。 人口2000に満たない与那国ですが、言語的には、与那国方言はヤマト語の東部方言と西部方言に比する位置を占めています。 |
琉球語の5大方言の系統 方言名のうしろは「いらっしゃい」の方言です。 沖縄本島の沖縄方言は、北部方言と中南部方言に分類されます。 北部方言には、伊江島、津堅島(つけんじま)、の他に、久高島がふくまれます。 中南部方言は読谷、石川から南をさします。 |
| ▼ 人の意識は滝のぼりの鯉と同じで、上ばかりを向きがちです。沖縄本島の人は関心を宮古八重山に向けることは少ないです。 しかし、方言に関しては、周辺ほど古固形を残しています。ことばは文化の原点です。これらの方言を大事にしたいものです。 日本語の歴史や文化は、方言によってさらに豊かになり、解明されるところが多くなるでしょう。 *子供にとって日本標準語の他に、地元のことばをマスターするのは大変な負担になり、経済的にはあまり得にはなりません。ここに問題のむずかしさがあります。一国の文化政策の鼎(かなえ)の軽重が問われるところです。 |
![]() 2002年度の与那国中学卒業生16名 島には高校がないため、文化も風習も違う沖縄本島の高校へ下宿通学することになります。島には仕事がないため、卒業後シマへ戻れる者はごくわずかです。このうち何人が、日本語の、日本文化の鍵を握るシマことばを継承するのでしょうか? |
| ▼ オランダ語と英語は、系統が同じですが外国語です。 同様に琉球語も日本語とは系統を同じくしますが、琉球語は外国語として習った方が有利なことが多いようです。1000年も前に枝分かれして、フランス語とイタリア語ほどちがっているのですから。 ¶
与那国の方言の例 ヤ行はダ行対応します。 |
*与那国のことば 与那国島は、荒波寄せる絶海の孤島です。風が強いきびしい環境に住む人々は、声高(こわだか)でストレートに話すようです。 石垣の人でも、与那国のことばはわかりません。 「ドナンチュ(与那国人)のことばは、怒っているようで、 、なよ!」と、ついいいたくなるそうです。 与那国名物のハンマーヘッド・シャークと60度の「どなん」 |
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| ◆沖縄にもアイヌ語の地名が (#114,2004年3月) |
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| ▼ 日本列島はパチンコの玉の受け台のように、太古の昔からアジア系諸民族が流れ落ちてくるルツボ(=坩堝、画像)でした。 ▼ 街を歩くと、インドネシア系、蒙古系、コリア系、中国系、ツングース系の子孫らし〜い人々に出くわすのは、そのせいです。 *ツングース=鮮卑(センピ)、靺鞨(マッカツ)、女真(ジョシン) ▼ 物の名前の中で、地名はかわりにくいものです。北海道の地名にアイヌ語が多く残っているのはそのためです。 ▼ アイヌ語の痕跡は、北海道、東北ばかりでなく、全国に散在しています。 たとえば、稚内(わっかない)のナイは、アイヌ語では「川、沢」を意味します。北海道以外のナイを下にあげます。 岩手県: 中内(なかない)、口内(くちない) 高知県: 口屋内(くちやない)、奥屋内(おく やない) ▼ 沖縄県の与那国島には、 祖納(ソナイ) があります。 *与那国島地図 与那国島役場 ▼ 縄文文化(−10000〜−300)をになったアイヌは、日本列島全体に1万年間土着していました。 |
九州によくあるナは、水です。 *名古屋のナ、難波(なにわ)のナ、那覇のナもアイヌ語の水に関係ありそうです。 ▼ アイヌは環日本海一体に住んでいました。 朝鮮語のナも水です。 ▼ その後、紀元前3世紀に稲作と金属器をたずさえた農耕民が、九州から侵入し日本の中央部を占領しはじめました。朝鮮での争いを避け、安住の土地を求めてやってきました。朝鮮には中国長江以南に住んでいたマレー系の民族が稲作を伝えたと思われます。 中国のマレー民族は、春秋戦国時代から・前漢にかけて勢いを増した漢民族から逃れ、日本列島にも直接稲を持って上陸しました。 この弥生文化(−300〜300)は紀元300年には東北にまでひろがりました。 弥生文化は、北海道、東北、沖縄には遅く入ってきたので、これらの地方には縄文語はより濃く残されました。 古事記、万葉集にはアイヌ語で解釈できることばが、散見されます。 ▼ 日本の地名の中には、アイヌ語ばかりでなく、ツングース語やその他の民族語の痕跡も地名に残っているに違いありません。 ▼ 日本語、日本民族が、多様性に富むのはハイブリッド(雑種)だからです。¶ |
| ◆沖縄にはなぜ神社がないの? (#115,2004年3月) 斎場御嶽(セーファ ウタキ) |
| ▼ 仏教の影響が少ないからです。ヤマトの神社は、お寺に対抗して立派に建てられました。 ▼ インドのいわゆるカーストは、 バラモン クシャトリア バイシャ シュードラ の4つのカーストからなります。。 ▼ バラモンは僧侶祭司 クシャトリアは王侯、武士 バイシャは農民、商人、職人 シュードラは奴隷です。 この関係を、1997年9月バンコクからカルカッタ(今はコルカタといいますが)へ同乗したインド人がやさしく説明してくれました。 ▼ 「人体にたとえれば、バラモンは頭、クシャトリアは胸、バイシャは腹、シュードラは下半身です。 バラモンは頭と口で人をしあわせに導きます。 クシャトリアは腕と胸で戦争をし、国民をまもります。 バイシャは食料を調達し、シュードラは人のいやがる洗濯や掃除などをします。 私たちが先ほどまでいたバンコクには、たくさんお坊さんがいましたが、インドではとっても偉いんです。」 |
![]() インドの行者は蓬頭垢面(ほうとうこうめん) 翌日も次の日も同じところで黙想していました。 ![]() ガンジス河で沐浴(もくよく)をしてみました。 インド人は格子模様をまといませんので、外国人だとすぐわかります。 |
| ▼ インドでは僧侶は存在自体が尊いのです。 だから、蓬頭垢面(ほうとうこうめん=もじゃもじゃ頭とあかだらけの顔)でも尊敬されます。住まいも立派である必要はありません。雨露をしのげればよいのです。 *「色即是空 空即是色」。「色」とは、物体のことです。→ 般若心経 ▼ ところが中国では、お坊さんはおがみ屋(巫者=ふしゃ)としてあつかわれ社会の最下位にあるものとされました。 それで、仏教をひろめるために大伽藍(がらん)を建立(こんりゅう)しました。朝鮮、日本でも仏教は現世的、功利的な信仰の対象となり、外を飾る必要がありました。 ▼ このように仏教は中国経由で日本に入ってきたために、信者を獲得するために、立派なお寺をきそって建てるようになりました。 対抗上、神主さんもお宮をつくるようになりました。 *神社の鳥居は、その中が聖域であることを示します。読谷にトリイステーションがあります。中には神さまなどまつってありません。神道関係者はこのことをどう考えているんでしょうか。 ▼ 沖縄には弥生(−300〜300)の痕跡はほとんどありません。したがって仏教の影響もありませんでした。それで、在来の宗教も対抗する必要がありませんでした。 |
![]() 斎場御嶽(セーファ ウタキ)の大三角形アーチ ![]() アーチから遠望した久高島 |
| * 琉球は、縄文(−10000〜−300)の時代にヤマトとつながっていて、その後孤立し、鎌倉時代(1192〜)以降に稲作をとりいれるなどして、交流を再開しました。 琉球人がヤマトへいったのではありません。ヤマトか琉球人が移住したのでもありません。もともとそこにいたのです。 ヤマトは稲作民族に征服されましたが、琉球は稲作技術をとりいれたのです。稲作民族が押しよせることはありませんでした。 稲作は、征服をともなうとは限りません。伝播することだってあるのです。 日本民族(ヤマト人+琉球人)が、縄文前にどこから来たのかは別問題です。 有史以前には、日本列島へは北から南から東からあらゆる所からいろいろな民族が流れ込んできました。日本列島はパチンコの受け台です。それら諸民族が何万年もかかってとけあって、縄文文化をつくりあげました。 ▼ 2003年3月、斎場御嶽(セーファ ウタキ)をおとずれました。山全体が御嶽(ウタキ)です。御嶽(ウタキ)とは、神さまが降臨する聖地です。沖縄で一番霊威が高いところです。 大きな岩が寄り添ってつくった大三角形のアーチをくぐると6キロ東方海上の久高島が一望にできます。 ▼ 久高島のずっとずっと向こうにニライ・カナイがあります。ニライ・カナイは海の彼方の神さまの世界です。 神さまは来沖するときは、まず久高島(クダカジマ)に降臨してから、斎場御嶽(セーファ ウタキ)に鎮座し、琉球の民に生きる力とめぐみをもたらします。 *久高島は南部にあるにもかかわらず、久高島のことばは、北部方言に属します。花をパナといい、古い日本語が残っています。 ▼ 琉球王朝では、宗教の最高位者は聞得大君(キコエ オオギミ)でした。王様の妹などがなりました。 聞得大君(キコエ オオギミ)になる任命式は、神さまから承認をいただくために、斎場御嶽(セーファ ウタキ)でおこなわれました。 |
![]() 小さな石があるだけでいい聖域 信仰は内面の問題で、建造物やきらきらしたものとは、無関係。虚飾のない宗教の原点です。 ![]() 大きなクモがいる森林は本物 同行したバークレーの院生がいいました。 「こんなに大きなクモがいるのは、この森林が本物の証拠ですよ。」 人の手が入った森林には、大きなクモはいないそうです。 |
| ▼ 冬至には首里(那覇)からみると斎場御嶽(セーファ ウタキ)、久高島は、日の出の方向(東南東)にあたります。 逆にいうと久高島、斎場御嶽(セーファ ウタキ)から日の出の方向一直線上に首里城をつくったのでしょうか? どうも偶然ではないように思われます。 *首里(那覇)からみた久高島の方向地図 ▼ *ポランの広場 久高島を望むことができる広場 知念村ガイドマップ 知念村 神の島の再生 久高島 読売新聞 久高島 知念村 |
![]() イグアナも共存 聖地ですから、木の枝を折ったり動物、昆虫を持ち去るのは御法度(ごはっと)です。 |
| ◆宮里 藍優勝のカゲに、沖縄特有の兄妹愛 (#116,2004年3月) |
| ▼ 女子プロゴルフで、宮里藍(アイ)がプロ初勝利を挙げました。おめでとうございます。 キャディー役をつとめた兄の力が大きかったようです。勝つ雰囲気を知っていますから。 「優勝は半分はお兄ちゃんのおかげです。」 「お兄ちゃんはいつもおちついている。それが私に自然に伝わってくる。」 プレー中お兄ちゃんはアイちゃんの緊張をほぐすため、冗談ばかりとばしていたのではないでしょうか? *宮里3兄妹の父、宮里優 ▼ 沖縄では兄妹関係は濃密です。昔、兄・弟が旅立つとき姉・妹がティーサージ布をお守りとして贈りました。 ティーサージとは、手ぬぐいほどの大きさの布で、これを心をこめて染めたり織物にしたりしました。 ▼ 兄妹始祖創世神話もあります。 海の彼方のニライカナイから兄シネリキョと妹アマミキョが久高島に降り、対岸のセーファーウタキに渡り、その後首里で王朝を開きました。二人は沖縄人の先祖です。 また、兄が王になると、妹を聞得大君(キコエ オオギミ)にしたりしました。 たとえば、琉球王朝のもっとも有名な王は尚真(在位1477ー1526)です。,ほぼ50年間在位し、琉球国の黄金時代を築きあげました。尚真王は、妹を聞得大君(キコエ オオギミ)にしました。 →沖縄にはなぜ神社がないの? → |
← ▼ ヤマトもかつてはそうでしたが、今は沖縄のような濃密な関係はありません。 『古事記』は、世に出すことを意図せずに、天皇家だけに代々伝えてきた天皇家の物語です。 アマテラスオオミ神とスサノオの命(みこと)の姉弟神による高天原(たかまがはら)神話が、その例です。 【『日本書紀』は、対外アピール用の公的な歴史書です。】 ▼ 宮里家の東村(ヒガシソン)は人口2000人に満たない村(ソン)です。名護から分村しました。 【沖縄では「村」はすべてソンです。】 *東村への交通 *慶佐次(ゲサシ)のマングローブ(ひるぎ林)は、天然記念物です。 東村村民の森 つつじエコパーク ツツジの名所 *東村(ヒガシソン)役場 ▼ アイちゃんのホームページが待たれます。 ¶ *出来ました。(2005年2月)↓ Play Golf! 宮里藍 宮里藍の公式ページ |
| ◆宮里ゴルフ一家の原点は「ティンサグヌ花」 (#117,2004年3月) |
| ▼ 宮里ゴルフ一家が人気があるのは、沖縄人の理想家族を体現しているからです。 宮里ゴルフ一家の原点は「ティンサグヌ花」 です。 「ティンサグヌ花」 はウチナーで一番有名な童謡です。民謡、ジャズ、歌謡曲にアレンジされ20種類以上あります。 *ティンサグヌ花【画像】 ▼ 全体の意味は次のようです。 《 鳳仙花(ほうせんか)の花で爪を染めるように、親の教えを心に染めなさい。 夜走る船は北極星を見ている。親はいつでも私を見守っている。》 【後段は、桑原の解釈です。ゴルフの宮里ターリー(父)はいつもアイちゃんのプレーを現場で見守っています。】 ウチナーでは、人は自然に近く、天に近く、また人に近いことがみてとれます。特に人口2000人の東村ではそうです。 *沖縄県市町村位置図 自治体ホームページ、人口も ▼ ティンサグ(飛びさご)の花とは、飛びちる砂のような花の意味です。触れると種がはじけ飛びます。薩摩弁では「とびしゃご」といいます。 「さご」とは砂です。ヤマト語では真砂(まさご)で、本当の砂、つまり細かい砂を意味します。 赤い花びらをすりつぶして爪に乗せ、布でおさえておきます。魔よけにしたりします。爪紅(つまべに)の異名もあります。 ▼ ウチナーがコンビニ文化に染まらない限り、ウチナーに「ティンサグヌ花」文化は生き続けるでしょう。 |
ティンサグヌ花 てぃんさぐぬ花 【曲】 1) ティンサグヌ花(ハナ)ヤ 爪先(チミサチ)ニ 染(ス)ミティ <ホウセンカの花は 爪先に染め> 親(ウヤ)ヌ 寄(ユ)シ言(グトウ)ヤ 胆(チム)ニ 染(ス)ミリ < 親の教訓は 心に染めなさい> 2) 夜(ユル)走(ハ)ラス 船(フニ)ヤ ニヌフヮ星(ブシ) 目当(ミアティ) < 夜走る船は 北極星を見ている> 我(ワ)ン 生(ナ)チェル 親(ウヤ)ヤ 我(ワ)ンドゥ 目当(ミアティ) < 私を生んだ親は 私を見守っている> *8-8-8-6(サンパチロク)の30文字による琉歌形式です。 *爪(チミ)と胆(チム)が韻を踏んでいます。 *ニヌフヮ星(ブシ)とは、「子(ね)の方星」で北極星のことです。¶ *人が守るべき六つの教え 六諭衍義(りくゆ えんぎ) 名護親方・程順則 |
| ◆コオロギが語る広く大きかった沖縄 (#118,2004年3月) |
| ▼ 井伏鱒二(いぶせ ますじ)の『山椒魚』 は、狭い岩穴に住んでいるうちに、大きくなりすぎて外に出られなくなったサンショーウオについての短編です。 ▼ 国頭村(クニガミソン)の宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞には、1万年間も鍾乳洞に閉じこめられているコオロギがいます。宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞は辺戸(へド)岬の西側崖下にあります。 *国頭村(クニガミソン)の地図 役場 *南西諸島の地図 ▼ 1万年前は、宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞は陸地でした。今より水位は40メートルも下にあったといわれています。コオロギがそれを語っています。 *宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞の断面図 *鍾乳洞の写真→「ダイバーに人気」まで降りてください。 *宜名真海底鍾乳洞 :国頭村役場 ▼沖縄も中国大陸、台湾と陸続きで広く大きかったです。2万年前から離れはじめました(地図)。 ▼ 1万年前から地球の水位があがりはじめたため、宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞の入り口は水没してしまいました。そこにたまたまいたコオロギは真っ暗闇の鍾乳洞(Limestone cave)に閉じこめられ、以来1万年間も子孫を継承してきました。 眼は退化してしまって、光に全く反応しないそうです。 ハワイには、同じような状況で10万年も生き続けているコオロギがいて、眼そのものがなくなっているそうです。(大城安弘) ▼ また、宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞からは 10000年以上前の石器 も見つかっています。人がこの中に住んでいたということです。¶ |
![]() 沖縄本島最北端の辺戸(へド)岬の祖国復帰闘争碑 →碑の全文 ![]() 辺戸(へド)岬から23キロ先の鹿児島県所属の与論島を遠望 沖縄は1972年に復帰しました。与論島などの奄美諸島は1609年に薩摩に編入されました。それまでは琉球王国に属していました。 海底遺跡関係の文献→ 与那国海底遺跡に関する文献 *コオロギは「カマゼー」といいます。 <かまど+セー(ばった) *辺戸(へド)とは、「端、先端」の意味ではないでしょうか? *国頭村役場は、もっと宜名真(ギナマ) 海底鍾乳洞に注力したほうがよろしいようです。博物館があれば、観光教育の目玉になるでしょう。 |
| ◆沖縄人のルーツは長江文明 (#119,2004年3月) |
| ▼ 世界の4大文明は、紀元前3000年からはじまっています。
*四大文明とレンガ ▼ しかし中国では黄河文明より古い長江(Chang Jiang)文明がみつかっています。BC6000年からはじまる世界一古い文明です。
彼らは、長江の水を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民でした。漢民族ではなく、マレー系などの民族でした。 *長江文明年表中国まるごと百科事典 *長江文明のページ 桑原政則 ▼ 二つの文明の違いは、下のようです。
*南道北儒、南船北馬、南稲北粟(ほくぞく) ▼ 地球が寒冷化するに連れ、漢民族系が北から長江文明の地にも南下して来ました。 長江の民は、僻地の雲南やまた海を越えて台湾へ逃れました。台湾の山地民族はその子孫です。 ▼ 長江の民は沖縄にも移住してきました。沖縄人にはマレー系の血が50%は入っているといわれています。ヤマト人も同様です。 アイヌもこの仲間です。アイヌ語には雪、ソリといった固有の語彙がなく、アイヌ人は南方からやってきた民族です。 *河姆渡(かぼと、Hemudu)遺跡 地図。河姆渡(かぼと)は上海のすぐ南にあります。 |
![]() 長江文明の民の移住ルート 沖縄へはほんのすぐです。朝鮮へ稲作をもたらしたのも長江の民です。沖縄では人口が少なく稲作が不必要だったのでしょうか? 1609年の薩摩侵攻時の沖縄人口は10万人です。やってきた長江の民は、1000人を超えてはいなかったのではないでしょうか? 【メモ:上の地図製作時間は1時間。今後は10分を目標。矢印や書き込みはイラレで。】 ![]() 上海駅前広場。2002年 構内はいっぱいなので、外で夜を明かす人たち。大向こうのビルからは「祖国万歳 」のネオンが。盲流です。広東駅ではこれの何十倍も。 北京から上海に来るとほっとします。にらみつけるような北京人に対して、上海人は機敏で愛想がよいです。 ↓ 「多元性の国 中国」 cf. 共生と循環の縄文文化:三内丸山 紀元前3500年前から1500年間、栄えた青森県の巨大集落跡 Ban Chiang Archaeological Site (バンチェン古代遺跡) スライド 経過 タイ。紀元前2000年より栄えた文化 |
下は、「台湾の歴史と展望:李登輝を中心として」(Word)(桑原政則、1999)の第1章の1よりの抜粋です。 台湾の原住民 台湾は、400×200キロのサツマイモの形をした九州ほどの大きさの島である。中国大陸とは200キロ、沖縄の与那国島とは120キロの距離にある。東南アジアとも近く、台湾最南端の島とフィリピン最北端の島とは85キロ離れているだけである。 台湾には漢民族以外に先住の民族がおり、彼らは1992年から誇りを込めて、「原住民」と自称するようになった。台湾の原住民は、タイヤル人、サイシャット人、ブヌン人、ツォウ人、ルカイ人、パイワン人、プユマ人、アミ人、ヤミ人の9種を数える。 (補注:2001年サオ(邵)人が台湾の10番目の先住民族として認定された。) 言語的には、オーストロネシア語族(インドネシア語派またはへスペロネシア語派)に属する。台湾ではオーストロネシア語を話すこれらの種族を「高山(こうざん)族」、「山地同胞」、「山胞」とよぶ。日本語では、かつて高砂(たかさご)族とよばれた。「高砂族」とは、狭義には、日本植民地時代の先住民に対する総称である。高砂族と呼ばれるようになったのは、1923年に昭和天皇が摂政として訪台したときのことである。 (追2002年4月:人口200人のサオ(邵)族は2002年に第10番目の先住民族として認定された。台北『聯合報』2002-09-23) これらとは別に、漢民族に同化し、固有の言語文化を失った種族を、かつては熟蕃、あるいは平原地帯を占拠していたので平埔(へいほ)族ともよんだ。平埔族にはケタガラン族、ルイラン族、カバラン族、タオカス族、パゼッペ族、パポラ族、バブザ族、ホアニヤ族、シラヤ族があるが、漢族系の移住民との通婚や漢族化により漢族の中に埋没融合し、目立つ存在ではなくなってきている。 熟蕃に対し、同化しないままの先住民は、生蕃(せいばん)とよばれた。「熟蕃」、「生蕃」は、蔑称であるので、現在は廃止されている。なお、「台湾」という名称は、台湾の最初の都である台南の海浜の一部をシラヤ族が「タイアン」とよんだことに由来する。 これらオーストロネシア語族先住民の原郷は、中国大陸であり、大陸から台湾、フィリピンをへて、現在のインドネシア方面やオセアニアに拡散したとするオーストロネシア語族の台湾経由説がある。この説によると、この語族の南下拡散時に、台湾にとどまったのが、また一旦外にでて北上してきたのが、台湾原住民である。(桑原政則、1989、p.114) 原住民は台湾人口2200万の2%、40万人を占める。これらインドネシア系の民族は容貌、体格が日本人に酷似している。筆者は1999年9月ボルネオのクチンで「日本人は、山に住んでいるケラビット族に似ている。きっと、ケラビット族が大昔、北上して日本に入り込んだのでしょう。彼らは今しあわせですか?」とからかわれたことがあるが、どうもインドネシア系民族の基層が日本人のなかに色濃くあるようだ。 原住民には、日本語をよくするものが多い。筆者は1993年台湾本島の東南に浮かぶ蘭島にあるヤミ人の村を訪ねたが、村長格の人は日本語を上手にあやつり、李登輝と共に写っている写真を見せてくれた。また、日本語の名前をカタカナで書いてくれた。ヤミ人はフィリピンのバターン人と同系統で言語もバターン語に近い。筆者のグループの者がタガログ語を話したら、通ずるので双方が驚きあい、あらためてヤミ人はバターン人が北上したものであることを実感した。これら原住民は、多部族に分かれていたため、ついに統一した政権、王権を樹立することができなかった。 多元性の国 中国 (1980年12月 北京,上海を訪れた時の中国印象記です.) 地域性がはなはだしい中国 中国が広いのは当然として,おどろいたのは地域差の大きいことだった.「これで一つの国か」というのが実感だった.日本では,政治,経済,風俗習慣,流行などあらゆるものが,整然としたシステムをもって,東京という心棒を中心に回っている感じだが,中国では心棒がたくさんあり,それがどこにあり,何がどこに属し,どこを回っているか,つかみどころがない. (中国の地図 ) たとえば,同じ漢民族であるのに,北京と上海では,人間の骨格から,ことばや習慣にいたるまでことごとくちがう.北京の人々は長身で脚が長く,歩き方もどことなくどっしりしていて,質実剛健な感じがする.それはちょうど,北京の幅広い道路に威風堂々と,それでいて何の飾り気もなく立ち並ぶ建築物とぴったりの感じだ.乾いた空気,粉食の多い食事とあいまって,北京の文化は男性的な牧畜文化を思わせる. それにひきかえ,上海などの南中国は,気候温和で稲作生活に適しており,ひとは北方の質実剛健に対し,軽妙優雅だ.人間も北京人より2センチは小柄で,顔もまるく,日本人と似たところがある.北京から南へきて,なんとなく,ほっとするのは,きびしい北京の天候から解放されたせいばかりではない.上海人は,北京人のように相手をじろりとにらんだりせず,人あたりもやわらかく,てきばきとものごとを処理する. 漢字の読み方も異なる 昨1979年の暮,川越に胡美芳という往年の名歌手がやってきた.彼女の十八番は「イェライシャン(yeN lai/ xiangT)」だ.イェライシャンは,夜,花を開き強い芳香を放つ宵待草に似た草花で,漢字では「夜来香」と記す.こゝで注意すべきは「香」は「シャン」とよむということだ. (中国語の表記法と発音のページ) ところで,中国の地名ホンコンは「香港」とかく.中国語は一字一昔が原則なのに,「夜来香」の「香」は「シャン」と読み,「香港」の「香」は「ホン」である.なぜこうなるかというと,「夜来香(イェライシャン)」は北京語読みで,「香港(ホンコン)」は,広東語読みだからである.香港は,北京語読みではxiangT gangVとなる. その昔,国電新橋駅近くに「夜来香」というクラブがあったが,さる著名人がこれを,「イェライホン」とよんでいた.これでは湯桶(ゆとう)読みならぬ北京語+広東語読み,つまりペーカン(北広)読みだ. 北京語と上海語とでは声調も異なる 北京語と上海語とでは話が全く通じない.このことを中国語では,「鶏と鴨(かも)が話すす」という.北京語と上海語は,発音ばかりでなく,声調(トーン)もちがうのだから通じようがない.声調は北京語では4種だけだが,上海語では7つ,広東語にいたっては9種もある. これらの言語間では,発音や声調ばかりでなく,使用語彙もことなる.象徴的な例をあげると,公園で実見したゴミ箱の名称だが,北京では「果皮箱」,杭州ではでは「果売箱」(「売」は「穀」の簡体字),上海では「廃物箱」であった. 西湖で有名な杭州での案内人は上海人だったが,杭州から上海まで汽車でわずか4時間なのに,彼はこの土地のことばは全くわからないといって,北京語を話せる人としか話しができなかった. 中国語は,5つの語系に大別される.北京語,上海語,広東語,客家語,さらに福建語がそれだ.これらは英語、ドイツ語、フランス語のようなもので,お互いに通じない.なお,標準語は小学校から全国で外国語のように教えられるので,その普及率は特に若い人の間では高く,また新聞や発誌はどの地域で発行のものであれ,標準語の語彙文法を使用する. 多国家からなる中国 中国を理解するためには,中国には雑多な「くに」が依然割拠しているととらえた方がよい.たとえば,中国人は初対面の人に「●国人(ナーゴレンnaV ge ren/)?」ときくが,これは相手がどこの外国からきたかたずねているのではなく,上海からきたのか四川からきたのか,どの地方からきたのかきいているわけだ.(●=口+那) また,「十里ごとに慣習がちがう」ということわざもある.このように,中国は多種多様なバラエティを展開しているから,これをはじめから統一的に把握せんとすることは,方法論的に有利ではない.北京市だけでも四国と同じ大きさである. 一般に,未知の対象を「分かる」ためには,まずそれを「分ける」ことが必要である.その意味では,ある文化社会への接近をはかるための方法論,すなわち異文化接近学は,deductive(演繹的)なphilosophyよりも,inductive(帰納的)なphilologyに親近性を覚えるものだ. ともあれ,「分けて」考えることの必要性は,今にいたるも,日本人のいだく中国像に,二つの大きな傾斜があるが故に,とくに強調されねばならない. 第一の傾斜とは,日本人が中国にあまりに同文同種意識をもちすぎることだ.同文同種意識が危険なのは,中国は何らの予習なしでも,緊張感なしでも,自然にわかるんだという短絡した態度を招来するからである. 中国は近くにはあるがあくまでも「遠い外国」だ.漢字を例にとっても,ごく平易な口語でも双方では意味の懸隔がある.「走」は"歩く",「等」は"待つ",「去」は"行く"ことだ.また「人間」とは"世の中",「勉強」とは"無理じいする"ことを意味する.「手紙」は"トイレットペーパー",「湯」は"スープ",「娘」は"母親"のことである. 杜甫の「国破れて山河あり,城春にして草木探し」の「城」とは"城壁内の場所→都会"のことで,人口100万の世界一の大都会長安をさしている.長城chang/ cheng/とは"長い城壁→万里の長城"のことである.日本の「荒城の月」などにでてくる天守閣つきの城とは大ちがいである.なお,中国語のなかには,「哲学」,「科学」,「社会」,「大学」,「図書館」,「共産党」など一致しているのもあるが,これら近代概念語は清末などに中国人留学生が日本からもちかえった日本借用語だから,一致は当然のことだ. ともあれ,中国理解のためには,中国をアラブなどの未知の文化社会と等置する意識変革がまず必要だ.実際,中国人はアラブ人に一番近いという人もいる.また,日本人で中国,アメリカの両文化にくわしい人は,異口同音に,アメリカ人,アメリカ社会の方が中国人,中国よりわかりやすいという. 次に,日本人の中国に対する第二の傾斜とは,中国=漢民族国家とアプリオリにとらえることの短絡性だ.「漢」のなかのダイバーシティもさることながら,中国を考えるうえで,それ以上に大事なことは、非漢民族の存在、中国が多民族国家であることの認識である. たとえば,中国の紙幣を見ると、そこには5言語による表示がある.中国は漢族だけの,漢語だけの国家ではない.かつて,衰世凱の北洋政府は5色旗を用い、漢、満、蒙,蔵、回(カンマンモーゾーカイhanN manV menV zanN hui/)の5族をもって中国を代表させた.蔵はチベット、回は回教徒(イスラム教徒)であるウィグル族のことである. (中国の紙幣 裏側の右下) さらに,中国には,これら5族の他に,独自のことばや文化を有する民族が50以上もあり,しかもこれら非漢民族は,国土の半分以上の広範な地域に住む. とはいえ,なんといっても,中国の人口の9割以上は漢族が占めているから,中国=漢とわりきって考えて,なぜまちがいだという論もあろう. しかし,文化=人口ではない.また,漢文化は漢民族だけがつくりあげたのでもない.そもそも中国最初の王朝である殷(中国では商とよぶ),これにしてからが,純漢民族でなく,異民族との混血部族連合体である.冒述した北方中国人が長身であるのは,騎馬民族との混血の結果であるし,また南方中国人はタイ系などの原住民およびそれの漢人との混血者を祖先とするといわれている.さらに,紀元後の中国史の3分の1の800年間は,北魏(ほくぎ),遼(りょう),金,元(蒙古人),清(満州人)とかいった異民族による漢民族支配史でもある. 要するに,漢文化,中国文化とは,漢族と内外諸民族との合作融合文化,中国料理的ごった煮雑種文化であり,またそれは異族との接触対決により,不断に自己を鍛えあげている文化だといえよう.つまり,「異」と接触し,「異」を包摂することにより太ってできあがったのが,現代の中国文化というわけだ.よく中国文化は,変幻由在,複雑怪奇といわれるが,それは雑種文化であるからだ.その意味では,中国人とは漢族の者をさすのではなく,種族や血に関係なく,漢語を話し漢文明を不断に浴びている人びとのことをいうものだといえよう. ついでながら,東南アジアの華人系住民,いわゆる華僑が,現地にすんなり融合しうる原因の一つは,中国国内において不断に諸種族異集団との異文化接触を経験してきているからである. 以上を要するに,中国を根底的に理解するためには,漢族ばかりでなく,これら諸種の民族にあつい眼を注ぐ必要がある.筆者は,かつて中国における最大の少数民族で,漢族に次ぐ人口を占める壮族(チワン族zhuangN)などのタイ系諸族について学習したことがあり,これら諸族が地下水脈を通し,中国にいかに影響をおよぼし,栄養を与えつづけているかが実感できた.日本人も,また漢人も,中国の多民族性,混血性にもっと関心をはらうべきであろう. |
| ◆読谷の旧名はなぜ「大北(ウフニシ)」?:ことば (#120,2004年3月) | |
| ▼ 読谷はムカーシ大北(ウフニシ)とよばれていました。中山(チューザン)の最北の地にあったからです。山とはクニのことです。 ▼ ウフはヤマト古語の「おほし(大し、多し)」の「おほ」にあたります。ウフ アメとは大雨のことです。 大東島は、はるか東(アガリ)にあるのでウフ アガリ島とよばれます。 大里村は、ウフ ジャトゥとよばれます。 *大里村役場 人名の大城さんも、ウチナーグチではウフ グシクとなります。 ▼ 首里の守礼の門から東方500メートルの所に大角座(ウフ カクジャ)という交差点があります。【メモ:pic撮影】 あごのことを方言でカクジといいます。カクジャーで「あごのようなもの」となります。 大角座(ウフ カクジャ)では5本の道路が交差し、角張った動物のあごの形に似ていることから名付けられたと思われます。 ▼ ニシとは 北のことです。 *「西」とは、イニシ(去)で、出発点のこと *西原町は、「ニシ原町」にしては? ¶ |
![]() 中山の最北 読谷(ヨミタン) 北山は今の山原(ヤンバル)にあたります。ヤンバルというと、かなり北のように感じますが、実は中部以北、恩納村、金武町(キンチョウ)からすでにヤンバルが始まっています。 北山(ホクザン)は、かつて山北(サンホク)とよばれました。複数の支配者が入り乱れていたので、統一したクニではなかったので単に中山の北という意味で山北(サンホク)といったのでしょう。 同様に、南山(ナンザン)も、かつては山南(サンナン)とよばれました。 北山は今の国頭(クニガミ)、中山は中頭(ナカガミ)、南山は島尻にあたります。 後に中山(チューザン)は、琉球全体の、中山王は琉球王の別称となりました。 |
| ◆路地裏でも健闘する沖縄そば店 (#121,2004年3月) |
| ▼ 那覇に夜分につきました。ホテルのインターネットで「沖縄そば ランキング」を検索したら、ナンバーワン店は近くにありました。→ランキングの結果 ▼ マスターは店内にコンピュータをすえつけ、自分でホームページの更新をおこなっています。 ▼ まきし食堂は開業してからちょうど1年です。1年でナンバーワンになりました。目立たない路地裏にあっても、インターネットの力で健闘しています。味は常に改良中です。 ▼ 時代の波に乗れば、世の中を楽しくわたって行ける好例です。¶ 沖縄料理 桑原政則 |
![]() 那覇のまきし食堂。三越裏 |
![]() ソーキそば 空の小皿は骨を入れるためのものです。フーチバ(よもぎ)、ショウガで味をととのえます。600円です。ソーキとは豚の骨付きあばら肉のことです。 |
![]() まきし食堂 大城泰則マスター 自分のページを更新中です。 |
| ◆伊平屋はなぜ島尻郡にあるの? (#122,2004年3月) |
| ▼ 伊平屋(イヘヤ)、伊是名(イゼナ)の島は琉球史で独特の地位を占めています。それ故島尻郡に属します。 ▼ 尚王朝は、徳川政権よりながく、400年以上続きました。 尚王朝は、第一尚王朝と第二尚王朝に分かれます。 第一尚王朝を建てた尚巴志(ショウハシ)の祖先は伊平屋を本拠にしていました。尚巴志が琉球を統一したのは1429年です。 第二尚王朝を建てた尚円(ショウエン)は、伊是名出身です。 ▼ 沖縄では島を人体にたとえ、北を頭と考えます。 本島の上半分を国頭(クニガミ)といいます。 その下は、中頭(ナカガミ)です。 南端部は島尻(シマジリ)といいます。 ▼ ムカーシから、伊平屋(イヘヤ)、伊是名(イゼナ)は、王朝の始祖の出身島ですから、王府は特別視し直轄しました。 1881年那覇市の管轄になりました。 1896年には島尻郡に編入され、今に至っています。¶ |
![]() 伊平屋、伊是名は本島南部の島尻郡所属 【画像メモ:「島尻郡」は18ポイント、「伊平屋」は14ポイント、KUWABARAは12ポイントです。】 伊平屋へ行くには 伊平屋の真南にある今帰仁村(ナキジンソン)の運天港から80分、往復4500円です。車は島で借ります。港にあり1日4000円です。@@ *伊平屋へのアクセス:伊平屋村役場>「アクセス」 |
| ◆尚氏の発祥地 伊平屋 (#123,2004年3月) |
| ▼ 第一尚王朝を建てた尚巴志(ショウハシ)の祖先は、屋蔵大主(ヤグラ ウフヌシ)といいます。 ![]() 第一尚氏の始祖 屋蔵大主(ヤグラ ウフヌシ)の墓 階段をのぼったところにあります。 ▼ 伊平屋小学校の校歌も高らかに、伊平屋が尚氏の発祥地であることをうたっています。 しののめ晴れて、風清く 風光明媚の 学園は 昔 尚氏の 発祥地 霊地の里よ 伊平屋島 |
![]() 文化財破壊の現実 実は、「第一尚氏」の銘石も「屋蔵大主」の陵墓も何者かが勝手に設置したものです。 |
| ◆伊平屋の野甫(ノホ)大橋開通式 (#124,2004年3月25日) |
| ▼ 3月25日野甫(ノホ)大橋が開通しました。総工費60億円です。 比嘉副知事は開通式で「架橋は、故・山中貞則先生のおかげ」と述べました。 * 山中貞則と野甫大橋:伊平屋の歴史 →「戦後の伊平屋」¶ ![]() 赤丸が野甫(ノホ)大橋 ![]() 手前が野甫(ノホ)大橋、下は古い橋 対岸の野甫島(ノホジマ)には150人あまりがすんでいます。赤丸は風車 *伊平屋地図→伊平屋村役場 >「観光情報」 14番が野甫(ノホ)大橋です。 *野甫島(ノホジマ)地図 Wonder Okinawa |
![]() 野甫(ノホ)大橋開通式当日の村長の仕事 野甫(ノホ)大橋開通式の2004年3月25日朝8時半に村長室をおとずれました。今日はおえらがたをむかえる大事な日です。 西銘(ニシメ)真助村長は方々に電話をかけつづけていました。このような時には、大将は、動かないのも一法です。 村長室には山中貞則の額、写真が掲げられていました。名誉村民です。 2002年に訪れた平良市長室も同様でした。 西銘(ニシメ)真助村長は村長日記を公開しています。県内で2番目に若い村長です。 *伊平屋村役場 |
| ◆ 日本は伊平屋からはじまった:クマヤ洞窟 (#125,2004年3月) |
| ▼ 伊平屋中学校の校歌は、天の岩戸がある伊平屋が日本の国のはじまりとうたっています。 天の岩戸は 日本の 国のはじめのゆかり島 久遠の光 今もなほ ああ 夢もゆる 歌声は これぞ 我等が 伊平屋中 ▼ クマヤ洞窟は、天の岩戸ともいわれています。 天照大神(あまてらす おおみのかみ)が洞窟に隠れたために世の中が暗闇になったとの故事があります。 天照大神(あまてらす おおみのかみ)が籠(こ)もった穴と言う意味でクマヤ(籠穴)と名付けられました。 天の岩戸伝説は方々にありますが、ここは最南端の地です。 ▼ 琉球にしかない ゴホウラという貝が吉野ヶ里(よしのがり)から出土しました。琉球は弥生時代(紀元前300〜紀元300)にヤマトと交流があったことを示しています。北海道からも見つかっています。 *吉野ヶ里歴史公園 (ゴホウラのことは、2004年3月28日、日曜日にもかかわらず、読谷村歴史民俗資料館の図書室でゴホウラの実物を分析していた女性研究者の方からうかがいました。) ▼ クマヤ洞窟の天の岩戸説は、あながち荒唐無稽ではありません。 ¶ |
![]() クマヤ洞窟。本島最北部の灯台からの遠望 ![]() クマヤ洞窟の入り口 |
![]() クマヤ洞窟の内部。祭壇側から撮影 ウチナーンチュ(沖縄人)は、聖なる所を写すことはできるだけ控えます。 |
![]() クマヤ洞窟の祭壇。中央が鏡 沖縄では信仰の対象は小さな石です。鏡が中心のこの鳥居の祭壇は、ヤマト式です。何者かが勝手に建て逃げしました。不法設置です。 |
| ◆伊平屋島は、中台韓と指呼の間 (#126,2004年3月) |
| ▼ 無蔵水(むぞうすい、ンゾミジ)をながめに海浜におりたちました。ペットボトルなどが流れ着いていました。 ▼ 韓国語、中国語が目立ちました。 伊平屋は中・台・韓と指呼の間にあることが実感されます。 ▼ 柳田國男からの情報を元に島崎藤村が作詞した 「椰子の実 」が浮かんできました。 *椰子の実と柳田國男 地図あり。 |
![]() 無蔵水(むぞうすい、ンゾミジ) この岩の中腹には直径50センチの真水の水たまりがあります。干ばつの時でも水が枯れることがありません |
▼![]() 韓国語のペットボトル、化粧品のびん |
![]() 中国語のペットボトル |
| ◆沖縄振興の星 山中貞則 (#127,2004年4月) |
| ▼ 山中貞則は、鹿児島県生まれで、台湾の師範学校でまなびました。 ▼ 1954年、衆院で沖縄県民代表の国政参加を求める運動をおこしました。 1970年、総理府総務長官として沖縄問題を担当しました。円・ドル交換の差額補てん措置、復帰特別措置法、沖縄振興開発特別措置法に尽力しました。 その後も首里城復元、沖振法改正、新沖振法の制定などにも尽力しました。 |
![]() 山中貞則 伊平屋名誉村民。村長室にて 2002年平良市をおとずれました。同様の額が何枚も掲げられていました。 |