フィリピンを歩く 問題 桑原政則
- フィリピンの主要な島は、ルソン島と△△△△△島、および両島の間にあるビサヤ諸島である。
- マニラのある△△△島は、フィリピン一大きい島である。
- ホセ・
△△△△は、フィリピン独立運動の思想的指導者で、フィリピン第一の民族英雄である。
- △△市は、フィリピン最古の都市で、1521年にマゼランが立ち寄った。
- △△族とは、種族にかかわらず、フィリピンのイスラム教徒のことをいう。
- フィリピン社会の根底には、強力な血縁関係、△△△△△△△(コ…、凝似血縁関係)がある
- フィリピンの人々が信奉する宗教は、△△△△△教である。
- ラプラプは、△△△△を殺害した首長で、現在フィリピンでは最初の民族英雄としてたたえられている。
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アジア国別地図 >フィリピン
キーワード
セブアノ語、ちょっぴり タガログ語、ちょっぴり チャバカノ語、ちょっぴり イントラムロス ジプニー セブ タガイタイ ダバオ バギオ
バナウエの棚田 バロット ハロハロ バロン・タガログ フィエスタ マカティ マニラ麻(アバカ)マニラ大寺院
マニラ湾 マラカニアン宮殿 ラプラプ リサール レチョン
フィリピン略史
1521年 マジェラン、フィリピン到着
1571年 スペイン、統治開始
1898年 米西戦争。米の統治開始
1942年 日本軍政開始
1946年 7月4日、フィリピン共和国独立
1965年 マルコス大統領就任(1972年戒厳令布告)
1986年 アキノ大統領就任、マルコス大統領亡命
1992年 ラモス大統領就任1998年エストラーダ大統領就任
2001年 アロヨ大統領就任
国旗の意味
青は高潔な理想を、赤は国民の勇気を、白は平和と平等を象徴する。左の太陽は自由を、3つの星はルソン島・ミンダナオ島・ビサヤ島を象徴する。

フィリピンの主要な島 |
フィリピンの主要な島は、ルソン島と△△△△△島、および両島の間にあるビサヤ諸島である。
《A》 ミンダナオ
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サリサリ ストア
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ルソン島 |
ルソン島は、フィリピン一大きい島で北部のカガヤンと中部ルソンに平野が広がる。人口はフィリピン全体の半分を占める。
南部では大小の火山が林立し、中でもビコル半島のマヨン山(2452m )が山姿の美しさで有名である。住民は北から、イロカノ人、パンガシナン人、パンパンガ人、マニラを中心とする△△△△人、ビコール半島のビコール人に五大別される。
*Mt.
Mayon 画像
《A》 タガログ
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△△島=ビサヤ諸島の中心地 |
△△島はビサヤ諸島の中心地であり、マニラと共に航空、海運の中心地でもある。1521年マゼランがここに立ち寄った。
*Cebu 画像
《A》 セブ |
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△△△△△島=フィリピン第二の島 |
△△△△△島は、ルソン島に次ぐフィリピン第二の島で、北海道の倍くらいの大きさである。気候は1年を通して27,8度で、台風もなくすごしやすい。中央部は密林や高山のため、都市は海岸部にある。
最高峰はダバオ近くのアポ山(2954m )で、フィリピン一の高さを誇る。低緯度に位置するため台風におそわれることなく、降雨も年間を通して平均しており、平野部は農業の適地となっている。
*Mt.
Apo
米、トーモロコシの他、マニラ麻、パイナップル、アバカ、ゴムを栽培する。大農園による小農の駆逐が社会不安の一因にもなっている。森林資源にも恵まれるが、乱伐による自然破壊が問題となっている。金、銀、銅、ニッケルなどの豊富な地下資源を蔵する。
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もともとフィリピン人のイスラム教徒(モロ人)と山地民の住む島であったが、20世紀に入りアメリカに平定されるにつれ、ビサヤ諸島やルソン島からキリスト教徒が多く移住してきて、先住民を追いやり肥沃な平野部を占拠した。これが現在まで続いているイスラム教徒問題の発端である。
今ではほとんどの都市でキリスト教徒が多数を占める。彼らはビサヤ語を母語とするものも多いが、同時にまた国語であるフィリピノ語でビジネスをし、さらに多くが英語を理解する。山間部では先住民族が住み、今なお昔ながらの生活習慣を守っている。
《A》 ミンダナオ

アポ山 1992年 |
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ボルネオ島の△△州 |
フィリピン政府は、マレーシア政府に1962年以来ボルネオ島の△△州の変換を要求している。
フィリピンによれば、歴史的に△△州はフィリピンのイスラム教のサルタンの領土であった。サバ州は、石油・木材資源に恵まれている。
*Sabah
State
《A》 サバ
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マニラ |
16世紀初め、スペインがここを占領し、△△△△△△△という城壁を張りめぐらせた城下町を作り、教会を建設した。この城下町を核としてマニラは今日のように発展した。マニラ市は、パッシグ川によって大きく南北に分けられている。北側は、商店街や学生街が続き下町情緒にあふれている。それに対し、南側は、近代的なホテルや官庁のオフィスなど、高層ビルが林立している。
マニラではビジネス街マカティ、庶民の町キアポ、ショッピング街エルミタ、スペイン統治時代をしのばせる△△△△△△△などが観光コースである。
北側のキアポ、サンタクルスは、市場や商店、食堂、映画館が密集している下町の繁華街で、庶民生活に触れることができる。
南側のエルミタはホテルやレストラン、ゴーゴー・バーなどがひしめき、土産物、骨董品の店が多い観光街である。また、近代的なホテルや官庁のオフィスなどの高層ビルが林立している場所でもある。エスコルタ通りは、銀行、劇場、商店やレストランが軒を連ねている通りで、付近一帯はマニラのダウンタウンで商業の中心地としてリサ−ル通りと共に賑やかな繁華街となっている。
マニラは夕日の美しいところとして世界的に有名で、これだけを見るためにここを訪れる人もいるという。太陽が水平線にかかる頃になると、空は燃えるような真紅になり、エメラルド色の海は黄金色を帯び始める。この自然の壮大なサンセット劇を味あうにはには、ヤシの並木とアメリカ的な近代的ホテルが立ち並ぶロハス大通りのプロムナードからがよい。
*Manila
sunset
成田からマニラまでの飛行時間は4時間である。日本との時差は−1時間である。
《A》 イントラムロス
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イントラムロス |
マニラ湾に面するイントラムロスは、1571年スペイン人がフィリピン統治のために、建設した城壁都市である。400
年にわたるスペイン統治時代の面影が今も残る。
*Intramuros
スペイン語で「城壁都市」という意味で、スペイン統治時代の中心地であった。要塞の中に、総督府、大司教府、教会、学校、大学、病院が立ち並び、スペイン人のみがこの中で生活した。
いまサンオーガスチン教会、マニラ大寺院、サンチャゴ要塞や崩れかけた城壁が往時の雰囲気をただよわせる。また△△△△記念館では、スペインからの独立を達成するために戦った英雄△△△△やフィリピンの苦難の歴史を知ることができる。
《A》 リサール
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△△△△△△宮殿 =大統領官邸 |
△△△△△△宮殿は、パッシグ川に面し、緑の木々に囲まれた純スペイン風の美しい宮殿である。もともとはスペイン人の大地主の邸宅として建築され、のちにスペイン総督の官邸となった。
その後、アメリカ総督の官邸となった。1945年フィリピンが独立してからは、大統領官邸として使用されている。
*The
Malacanang Palace
《A》 マラカニアン
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モンテンルパ |
モンテンルパはマニラの南約25キロのところにある丘陵地で、太平洋戦争後に日本人捕虜や戦犯が収容されていた。現在は□□□となっている。
《A》 刑務所
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△△△△△=マニラ南の避暑地 |
△△△△△は、マニラから南へ車で1時間のところにある標高約700kmの避暑地、新婚旅行地で、峠の上からのタール湖とタール火山は一服の名画を見るように美しい。
*Tagaytay
プンタ・バルアルテは、タガイタイからさらに南西約70kmのところにあるにある白浜リゾ−トである。入江に続く傾斜地に、豪華なレストランやコテ−ジが点在し、真っ青な海原にはヨットやモ−タ−ボ−トが走り回っている。
《A》 タガイタイ
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△△△△地方=ルソン島の東南に突き出た半島 |
△△△△地方とは、ルソン島の東南に突き出た半島とその周辺にある小さな島々を加えた地域をいう。
*Bikol
米、野菜、魚が豊富にとれる。△△△△料理は、他のフィリピン料理と違って、スパイシーである。また、この地方は美人の産地として有名で、白人系混血美人が優位にあるフィリピン社会においても、△△△△美人はフィリピン人本来の美しさをもっている。
《A》 ビコール Bikol
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バナウエの□田 |
マニラ北方350qのところにあるバナウエ(Banaue)はイフガオ人による□田(Rice Terrace=段丘水田)でよく知られている。この光景は、世界八大不思議の一とまでいわれフィリピン最大の観光地のひとつとなっている。
*Banaue
《A》 棚
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△△△=フィリピンの軽井沢 |
△△△はルソン島北部にある高原都市で、フィリピンの軽井沢である。市内に松の木が多いことから“パインシティ”といわれている。気温が年平均18度と涼しいため避暑地として知られ、夏季の4月、5月には大統領官邸をはじめ政府業務のほとんどがマニラからここに移される。
*Baguio
《A》 バギオ
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△△市=フィリピン最古の都市 |
△△市は、フィリピン最古の都市で、1521年にマゼランが立ち寄った。地理的にフィリピン群島の中心(ルソン島とミンダナオ島の間)にあり、交通の要衝である。マニラと共に国際空港を有する。
《A》 セブ
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△△△=ミンダナオ島南部のフィリピン第2の都会 |
△△△市はミンダナオ島南部にあるフィリピン第2の都会である。マニラから1時間半の飛行時間のところにある。
市の面積は世界一広く、東京23区の4 倍を占める。天然の良港に恵まれ、古くからマニラ麻の積み出し港として栄えた。果物の王様ドリアンが市のシンボルである。
市の鼻先のサマル島では、水泳、釣りといったマリンスポーツが盛んである。△△△市の西にはフィリピン一高いアポ山がそびえる。アポ山には世界で一番大きい鷲が生存する。
穏やかな風土のこの町は、住民全体の8割がフィリピン各地からの移住者で、セブ語を話すビサヤ族が最も多い。
マニラ麻栽培の成功で第二次大戦前には、在住日本人は1.8万を越え、日本人小学校も15校を数えた。
《A》 ダバオ
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ダバオ市のシンボル ドリアン

町中至る所で無造作に売られているドリアン。1992年
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ダバオ郊外のイスラムの村。1992年 |

ものをかき始めるとすぐ人だかり。世界地図を描く。1992年
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サンボアンガ |
サンボアンガはミンダナオ島南西部の中心都市であり、スールー諸島への入り口でもある。△△△△文化、スペイン文化がフィリピン文化と混在し、フィリピンの中で最も異色な風景をかもしだしている。
住民はチャバカノ語を話す。チャバカノ語は、スペイン語が70%からなる言葉である。食堂ではビールを、”Uno cervesa,
senorita!”と注文する。郊外ではイスラム教徒の水上部落もあり、白いモスクが空にそびえたつ。
1635年スールー諸島からやって来るフィリピン人イスラム教徒を撃退するためにスペインが要塞を建設したのが町の始まりである。
アメリカ統治下になってから開発がすすみ、フィリピン中部、北部から移住者が急増した。現在この地区は、イスラム教徒ゲリラとの小競り合いで情勢が安定していない。
*Zamboanga
《A》 イスラム |

魚屋さん。1992年 |
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△△△△王国 |
フィリピン最初の王国は△△△△王国である。△△△△王国は同名の諸島中のホロ島を中心に、ミンダナオ島、パラワン島、ボルネオのサバ州を支配した。15世紀半ばに成立したイスラム系の王国で、スペインの支配も拒絶し、1915年にアメリカに支配されるまで続いた。
*Sulu
Islands
《A》 スールー
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ラプラプ=フィリピンの最初の民族英雄 |
ラプラプ(Lapulapu)は、1521年にセブ島に接するマクタン島に来た△△△△を殺害した首長で、現在フィリピンでは最初の民族英雄としてたたえられている。
*Lapulapu
《A》 マゼラン
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レガスピ(1505-1572) |
レガスピはスペインのフィリピン遠征隊の総司令官であった。法学、軍事学を治めた後、メキシコへ渡り市長などを歴任した。1564年国王により、フィリピン遠征隊総司令官に任命され、380人の部下を率いて、△△島に最初の植民地を建設し、周辺諸島への征服を進めた。ルソン島攻略半ばに心臓病で倒れた。
《A》 セブ
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△△△△ フィリピン一の民族英雄 |
ホセ・△△△△は、フィリピン独立運動の思想的指導者で、フィリピンの民族英雄である。1861年にマニラの南方に生まれた。
革命家であるほかに彼は、眼科医、学者、言語学者、画家、彫刻家、音楽家、作曲家、小説家でもあった。スペインによる彼の処刑は、民族運動を激化させた。
道路名や公園名をはじめ、彼にちなんで名付ずけられた地名が全国随所で見られ、フィリピン民衆がいかに慕っていたかを物語っている。
彼は、『われに触れるな(ノリメ・タンヘレ)』『植民地独立運動』などの小説をはじめ、文筆活動を通じてフィリピン人が国民的伝統に目覚めることをよびかけ、スペインの圧制に苦しむフィリピンの改革を訴えたため、スペイン官憲によってマニラで処刑された。
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マニラのリサール公園に彼の記念碑がある。5 月7 日の誕生日と12月30日の殉死日は国民の祝日となっている。東京の日比谷公園には、彼の滞日の記念碑がある。
《A》 リサール

マニラのリサール博物館にて。
*Jose
Rizal
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ボニファシオ(1863-1897) |
ボニファシオは△△△△支配の打倒をめざしたフィリピン革命の指導者であった。マニラの貧しい家庭に生まれた。1892年武装革命結社カティプーナンを結成し、フィリピン革命を指導するが、アギナルドの率いるプリンシパーリア層との指導権争いに破れ、処刑された。
《A》 スペイン
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アギナルド(1869-1964) |
アギナルドは、スペイン支配の打倒をめざしたフィリピン革命の指導者であった。1896年フィリピン革命がおこると、革命軍を率いて闘い、△△△△△△に代わり革命の指導者となる
。しかし翌1897年には、スペイン軍と日和見的に和を講じ、香港へ亡命してしまう。が、1898年米西戦争がおこると帰国し指導権を握り、再びスペインと闘った。
アメリカがスペインに勝つと、今度はアメリカとフィリピン・アメリカ戦争(1899-1902 )をはじめるが1902年降伏した。
《A》 ボニファシオ |
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フィリピン・アメリカ戦争(1899-1902
) |
フィリピン・アメリカ戦争は、1899年からフィリピンでアメリカの支配に対してなされた戦争である。フィリピンでは1896年以来、スペインの植民地支配に対する独立革命が進行していた。同じ頃、スペインの植民地△△△△でも独立運動が盛んであった。アメリカは△△△△独立を名分に、米西戦争をおこし、フィリピン情勢にも介入してきた。
《A》 キューバ
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米西戦争 |
キューバ人は、1868年よりスペインからの独立運動を始めた。これに対し、キューバの砂糖、タバコ産業に多額の投資を行っていたアメリカでは干渉論が高まっていた。
これと前後し、フィリピンでもスペインの圧制をはねのけようと、1896年大規模な反乱が起った。アメリカは、ポリネシアの△△△併合に乗り出しており、極東への通商拡大の拠点、そしてフィリピン支配の機を伺っていた。
アメリカは1898年の米西戦争でスペインに勝ち、キューバを獲得し、プエルト・リコ、グアム島を手にし、さらにフィリピンを植民地化した。
《A》 ハワイ |
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フィリピンは、△△△△(=国名)の最初の植民地 |
フィリピンは、△△△△(=国名)の植民地の第1号であった。
《A》 アメリカ |
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フクバラハップ Hukbalahap |
フクバラハップとは、太平洋戦争中の抗日人民軍武装△△△組織のことで、日本軍・傀儡(かいらい)政府軍との交戦回数は1000回以上にもおよび、日本軍をなやました。
《A》 ゲリラ
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イロカノ人 Irokano |
イロカノ人はルソン島北部を中心に住む有力な種族である。人口は500万人でセブアノ人、タガログ人に次いで、第3位を占める。
勤勉質素な生活をする。イロカノ語を話す。人口稠密なために北部のカガヤン河谷、ルソン島中部、ミンダナオ島さらにはアメリカなどに移住するものが多い。
△△△△元大統領をはじめ、政府や軍の要職につく者も多い。地理的位置の関係上、中国民族との混血が多い。
《A》 マルコス
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ビサヤ族 |
ビサヤ族はフィリピンの人口の40%を占めるフィリピン第一のグループである。3種族に大別される。
*Visaya
セブアノ人は、△△島、その東隣のボホール島、レイテ島、セブ島西隣のネグロス島を本拠地とする。イロンゴ人は、ネグロス島、西隣のパナイ島に、ワライワライ人はビサヤ諸島東端のサマール島、西隣のレイテ島に住む。
《A》 セブ
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セブアノ人 |
セブアノ人は△△△族の雄で、セブ島、その東隣のボホール島、レイテ島、セブ島西隣のネグロス島などに住み、ビサヤ諸語に属するセブアノ語を話す。
*Cebuano
人口はフィリピン第一で、フィリピンの1/4を占める。マゼランがセブ島に1521年来て以来、キリスト教が盛んである。人口稠密なためマニラ、ミンダナオ島やアメリカに移住するものも多い。
《A》 ビサヤ
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モロ族=フィリピン人イスラム教徒 |
モロ族とは、種族にかかわらず、フィリピンのイスラム教徒のことをいう。もともとはスペイン人が北アフリカのイスラム教徒ムーア人(スペイン語でモロ人)をさして呼んだ言葉で、それが次第にイスラム教徒そのものをさすようになった。
スペインの進出時には、△△△△諸島やミンダナオ島ばかりでなく、マニラ湾やその南方のミンドロ島にも、モロ族はいたが、3世紀にわたるスペインとの侵略戦争で次第に南方へ後退を余儀なくされた。
しかしスペインには執拗な抵抗を繰り返し、征服されるようなことはなかった。スペイン統治時代には、モロ族はスペインに対する報復として果敢な海賊行為を繰り返したので、キリスト教フィリピン人との間に憎悪の関係が生まれるようになった。
アメリカ占領期になって、モロ族は、文化的独自性を無視され、キリスト教徒フィリピン人と同一の体制に組み込まれ、現在に至るまで差別を受けている。モロ民族解放戦線などにより、キリスト教フィリピン人との間の対立は解消していない。
東南アジアのイスラム教徒の通例として、戒律はそれほどきびしくなく、毎日定刻のメッカ礼拝などはなされていない。
《A》 スールー
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ジプニー |
ジプニーは、一種の小型△△である。軍用ジープを改造したもので、赤、青、黄、緑のにぎやかな色彩がほどこしてある。
路線内であれば、好きな所で降りることができる。降りるときは車の天井をコインでたたいて合図する。
《A》 バス |

ジプニー。1992年 |
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バランガイ Barangay |
バランガイとは、国家が生まれるまでの□のことで、普通は30〜100戸ぐらいの家族からなる。スペインに征服されるまでのフィリピンには、国家はなく、バランガイがばらばらに散在するのみであった。
日本でも大陸に隋・唐という一大帝国ができるまではバランガイ社会であったが、隋・唐からの驚異を感じ、あわてて統一国家をつくりあげた。
フィリピンの悲劇は、日本のように大陸からの地鳴りを感じるほどには大陸に近くなかったため、国家形成の機運が訪れず、バランガイ社会の状態で外国勢力に征服されたことである。
*モロ族が外国の支配に戦っているときも、フィリピン民族精神は確立されていず、他のバランガイは無関心であった。
また国内に言語や文化を異にする有力な種族が割拠するため、いまだにフィリピン人性という強力な自我をもてないでいる。
さらに英語が共通語であることも国民の関心を土着の文化よりも外国の文化に向けてしまう弊害がある。今では村はバリオとよばれる。
《A》 村 |
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コンパドラスゴ=疑似□□制度
compadrazgo |
コンパドラスゴとは、スペイン語で「疑似□□制度」を意味し、カトリック教と共に16世紀に伝えられた。フィリピン人は一般に実の父母の他に、ニノン(ninong 代父)、ニナン(ninang 代母)を有する。
ニノンには地元の政治家や名士あるいは会社の上司があたることが多い。実の親とニノン、ニナンは親類と同様の親密な関係となる。ニノン、ニナンは、いわば第二の父母であり、子は実の親に対すると同様の敬意を払わねばならない。
フィリピン人は2組以上のニノン、ニナンをもつことが多い。コンパドラスゴがフィリピン社会を強い縁故社会にしている一因となっている。
《A》 血縁
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フィリピン社会は、血縁社会 |
フィリピン社会の根底には、強力な血縁関係、△△△△△△△があり、お互い恩を受けたり、返したりして、より強固なネットワークに、仕上げて行く仕組みになっている。この点昔の日本社会とよくにている。
《A》 コンパドラスゴ
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キリスト教 |
フィリピンのキリスト教は、アニミズムの影響を強く受けた△△△△△教である。国民の8割に浸透している。東南アジアの他の国では、西欧列強に植民地化される前に、すでに大宗教(イスラム教、仏教)の影響下にあり、国民形成を終えており、キリスト教に改宗するものは少なかった。
キリスト教を受け入れたのは、主としてまだ大宗教を受け入れていなかった山地の少数民族であった。
しかし、フィリピンにおいてはスペインの進出時には、大宗教は進出しておらず、国家形成もなされていなかった。
*スペインは、いわば部族国家が乱立していた日本の大和時代以前にやってきたようなものであった。
したがって人々の生活や慣習を宗教や国家が規制することがなかったので、キリスト教は容易に進出できた。キリスト教は、イスラム教の影響下にあった南部地域と山地民族を除いたところにほぼ全面的に受け入れられた。現在、教会は宗教的な空間であると同時に、人々の社交、情報機関としても機能している。
《A》 カトリック
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呂宋助左衛門 |
呂宋(ルソン)助左衛門は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した□の商人である。ルソン(フィリピン)との関係が深かったため、人々は彼を呂宋助左衛門と呼んだ。マニラに銅像がある。
《A》 堺
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フィリピン日系人会 |
ミンダナオ島の△△△周辺には1903年以来、日本人が移住しマニラ麻の栽培に成功していた。その数は約2万におよんだ。
太平洋戦争が始まると、彼らフィリピン在住日本人たちは日本軍に協力し、多くの犠牲者をだした。敗戦となると、15才以上の日本人は日本に強制送還されたが、それ以下の主として混血の子供達は母と共に、母の国に残されることになった。
残虐行為を働いた日本軍への憎しみから、取り残された母子に対するフィリピン人の反日感情は強く、命を奪われることもあり、生活は厳しいものであった。
多くの日系人は山中や奥地でひっそりと過してきた。そのため十分な教育も受けられず、現在でも社会的地位の低い者が多い。1980年に△△△にフィリピン日系人会ができ、今ではフィリピン全土に11の日系人会が設立され、会員も7000名を数えるに至っている。
《A》 ダバオ
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荒れ果てたままの日本人墓地。ダバオ。1992年
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主に沖縄人が眠っています。 |
フィエスタ fiesta |
フィエスタとは、スペイン語の「祭り」に由来する。フィリピンではカトリックの慣習にしたがい、町や村の守護聖人を祝う行事である。当日にはミサや行列が行われ、演劇、美人コンテスト、ダンスパーティがもよおされる。家庭では豚料理△△△△などの料理で客をもてなす。
フィエスタは、カトリック教徒の4大行事の一つで、守護聖人を祝う場であると同時に、親族、知り合い、近所同士のつきあいを深める場でもある。
《A》 レチョン
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レチョン=□□の丸焼き lechon |
レチョンは□□の丸焼きで、フィリピン料理で最も上等で代表的な料理である。1年かけて丸々太らせた□□を、姿なりに串刺しにし、山のようにおこした炭火で何時間も焼いたもので、パリパリになった耳としっぽの皮がおいしい。
つけ汁には、□□のレバーを酢と砂糖でトロトロに煮込んだものを使う。この豚はフィエスタ(祭り)の主役となる。
*lechon
《A》 子豚 |
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フィリピン料理は日本人の口にあいやすい |
フィリピン料理は、スープから煮物にいたるまで巧妙に食酢の味を効かせ、ニンニクや香辛料をふんだんに使用する。料理材料に魚介類の種類が非常に多い。
唐辛子は使わないことが多く、日本人の口にあいやすい料理である。日本の醤油にあたるのがパティス(patis)とよばれる魚醤油で、味噌にあたるのがバゴオン(bagoong)である。バゴオンは、小さなエビや魚の塩づけである。
主食は米である。庶民の食事は一汁一飯、それに1,2品のおかずが付くのが一般的である。
バロット(balut)は、ふ化する2〜3日前の△△△の卵をゆでたもので、ひよこの形になっており、外国人には食べるのに勇気がいる代物である。ハロハロ(halo
halo)は、あんみつにかき氷をのせて、ミルクをかけたようなもので、1920年頃日本人が紹介した。
*balut
*halohalo
《A》 アヒル
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マニラ麻 |
マニラ麻は強くて、弾力があり、耐水性に富むので、船舶用のロープに多く利用される。最近では人造繊維の開発により生産が低下している。
第二次大戦後、ミンダナオ島の△△△には2万人以上の日本人が移住し、マニラ麻を栽培していた。英語ではアバカ(abaca
)とよばれる。
*マニラ麻
《A》 ダバオ |
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バロン・タガログ |
バロン・タガログは、フィリピン男性の正装用上着である。ゆったりした刺繍入りの長袖シャツで、両サイドにスリットが入り、ズボンのところまで垂れ下がっている。△△△△△△の繊維を材料としているので、張りがあり通気性もよい。
*Barong
Tagalog
《A》 パイナップル |
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