| タコのハチ考:口が一番のタイ社会 |
| 桑原政則 |
タイ大丸横に最近完成した間道があり、そこを通ってチトロム路にさしかかったところに「ハウス・オブ・ジュート」というジュート製品製造直売店がある。過日、長男の誕生を故にジュート製品のおもちゃをもとめに家内とでかけた。手に入れたのはタコの八ちゃんのぬいぐるみ。以下はそのときの顛末をもとに、ことばからみたタイ社会の一断面を考察したものである。 (Source:桑原政則「タコのハチ考」『クルンテープ』タイ国日本人会、1976) 1 タコのハチ考 ジュート店で家内が女店員に、「このタコの足はながすぎます。タイのタコはみんなこんなに足がながいの」と冗談めかしてたずねたところ、女店員の問いには直接こたえず、「タイに足はありません。あるのはひげです。これはひげです。タコのひげは、人間と同じように長いのも短いのもあるんです」とのたもうたものだ。タコにひげとは、どういうことか。 日本語の書字では、同一範疇に属するものは同じへソやツクリであらわすことが多い。水に関する事象はサンズイ、松や杉や桜などの木は木へン、鯉や鮭や鯛などの魚は魚へンといった具合にである。それゆえ文字面からは、竹は木ではなく、逆に鯨は魚である。鯨は、魚の形をしており水中生活をしている。さらにその肉は魚屋で売られるので、常識的にも魚である。学問的にのみ魚でないわけだ。 文字をながめるだけで、そのものがどんな範疇に属するかということが、たとえその文字を正確に読めなくともわかるということは便利なことで、海豹(あざらし)、海象(せいうち)などは読めなくても、ただちにどんな種に属し、どんな姿かたちをしているかを想像しうる。視覚的には、これは大変都合のよいことである (こまる点もある。「海」という字の読み方かがふえ、漢字の負担がますことだ。この点についてはここではふれない)。 タイ語ではこのようにはいかない。しかし、タイ語ではおもしろいことにまた便利なことに、へソやツクリにあたるものを文字面ではなく聴覚的にあらわす。たとえば木の名前にはトンを前置する;トン・ソン<松>。鳥の場合はノックをつける;ノック・カチョーク<すずめ>。魚はプラーを前置する;プラー・ムック<タコ、イカ>。 漢字の面からみれば、タコは、「蛸」とかかれ虫の一種と見なされる。蟹(かに)も虫である。しかしタイ語では、タコはプラー・ムクという語から推測しうるようにプラー、すなわち魚に属するわけである。なおイカもプラー・ムックといい、普通タコとイカを区別しない。特にタコと言いたい場合は、プラー・ムック・ヤックという。ヤックとは語源的に「夜叉」に由来し「鬼、鬼のように大きい」を意味する。プラー・ムック・ヤックとは、したがって「鬼イカ」ということになる。ともあれ、かの女店員のいうごとく、タコは魚に属するので、脚はなく、あるのはひげというわけである。
2 タコの脚は9本 ジュート店での問答はさらにつづく。タイでは顧客・店員朗係は日本のようにたてにきびしいものではないので、したがってすぐ友人閑孫や冗談をいう関係に発展する。さきほど求めた八ちゃんをクン(えび)というその女店員が包装するのをみながら、冗談まじりに「タコにはヒゲが何本あるの?」とたずねてみた。 タイではまだ法律上の名前はお仕着せのような感じがするので、タイ人はお互いを略杯や愛杯で呼びあうが、生まれたとき多分えびのように赤かったのでクンというニックネームになったその女店員は、「わかりません。ヨ・イェ(いっぱい)。…9本かな」とのこと。 タコの足の数を知らないのに、なかばあきれながら、「ほんと? じゃ数えてみようか」と小生。1つ、2つと彼女の面前で数えだした。そしたら、おどろいたことに、何とそのタコのあしは9本あった。ためしに陳列台にある他の八ちゃんも数えてみたら、みな九ちゃんだった。 日本人に、鯉のひげは何本あるか、という質問が難問奇聞であると同様、タイ人にはタコのひげの本数は興味関心のらち外にある。ためしに、他のタイ人に「タコのひげは何本?」と同様の質問をしたところ、その質問には興味をしめさず、逆に「タコのひげを日本人はたべるのか?」と問い返される始末。むべなるかな、ひげである以上、「いっばい」であればいいのであって、別に本数にこだわることはない。問題は、実利的なタイ人にとって、それがくえるかどうかなのだ。 ちなみに、タコとは縁のないアメリカ人に足の数をたずねたところ、8本と正確にこたえた。が、あとで考えてみると当然なことで、彼女は語義から判断したのだろう。オクト・パス=「8本」+「足」というふうに。さらに足は正式にはtentacleというが、幼時には「手」といっていたとのことである。彼女は、海とは縁のないイリノイ出身である。別のアメリカ婦人は、1egと習ったとのことである。 ともあれ、ここからわかることは、ある事象をことばがいかに切り取るかで、逆に今度はことばがいかに人間の物の見方、考え方を支配してしまうかということであろう。稲作南下民族のタイ族は、タコを魚ととらえたために、日本人とは、はなはだ異なるタコ観をもつに至ったようだ。
3 ”9”はラッキーナンバー それでは、数える関心もないタコのぬいぐるみのひげを、なぜ編みやすい8本やユ0本という偶数ではなく9本にしたのだろうか。ここにも言語社会学的なconnotation(言外の意味)があるように思われる。 タイでは、承知のごとく、9という数字は日本語とは逆にラッキー・ナンバーで、われわれが考える以上に日本人より何ごとにつけ信心深いタイ人は、この数字に固執する。日本には吉凶両数あるが、われわれは末広がりの八、あるいはラッキー・セブンをとくにもとめるよりも、逆に病院などにみられるごとく4(死)や9(苦)の凶数をさける方向に強く努める。なお、タコの八ちゃんが日本人に人気があるのも、一つには足が八本あるということもある。が楽天民族タイには、吉数しかない。このラッキー・ナンバー9に対する信仰は全社会レベルにまでおよぶ。 タイの街には自動車のlicence plate屋があり、ナンバープレートやその枠を売っているが、その看板は例外なく9999だし、9番号はプレミアムつきでも入手しがたい。したがって、ナンバープレート 9999などという由動車のオーナーは、富貴併存社会のタイにあって富と貴の所有者として大いに刮目されることになる。 タイ人から結婿式の招待状などをもらうと、招待時刻が7時39分などとなっており、奇異の感にうたれる。しかしこれも9(カウ)が「前進発展」を意味する数字のカウと同意であることに由来する。 宗教や政治にもこの”9”信仰はまかり通っている。タイは仏教国といっても、そのなかには迷信土俗が多く入りこんできており、僧侶が数字占いをしたり、宗教的行事を9人で1時39分などといった時刻におこなうのも、仏教の一種と考えられている。 かつて軍政崩壊後にドゥシット・ターニを拠点としたのは99グループだし、また当時、地上をにぎわしたナワボンにしても、ナワは“ニュー、ナイン”を、ポンは”カ、将軍”を意味するところから、New Forceと訳されたが、裏の意味はNine Generalsだと喧伝された。小生の家内はタイで長男を出産したが、出産にあたりアメリカ帰りのチエラロソコン大教授が最も骨を折ってくれたのは名医の紹介ではなく、そこの受付の順番を9番目にすることであった。二、三回朝早くから並んだが失敗し、虚々実々のかけ引きののち9番目を手に入れた時は、わがことのようによろこんでくれた。
4 「口が一番」 ところでタコの話にもどると、先述のごとく日本人が蛤が魚でないことを字面からつかむように、タイ人はプラー・ムク・ヤック(タコ)が魚(プラー)であることを耳で判断する。いわばタイ人は聴覚民族であるわけだが、聴覚民族から日本人が学ぶべきことがらを最後に考えてみたい。 日本人はことばを指でなぞったりして、活字化しないと覚えることのできない聴覚民族である。一般にことばというものは、言語地理学者ジリエロンにまつまでもなく同音類似語は排斥しあい、どちらかが滅亡するものであるが、視覚民族の日本人にとっては文字さえちがえば同音でも一向に痛痒不便を感じないばかりか、かえってそれを利用しようとする傾向までうかがえる。鈴木孝夫氏にまつまでもなく、まず「しりつ」といって、国立や県立でないことをあらわし、「市立」か「私立」かは文字にまかせる。口頭で区別したい場合は、いちいち「いちりつ」、「わたくしりつ」といいかえる。「かがく」で学問名をあらわし、文字で「科学」が「化学」かの下位区分を示す。 ここからいえることは、日本人の言語活動にとり、聞いたり話したりということは副次的要素にすぎず、語義の最終決定権は常に文字にあるということだ。「そくせい」と聞いただけでは、「早くなにかをなしとげること」ぐらいの意味しかわからないが、「即製」、「促成」、「速成」と文字を媒介にすると焦点が定まり意味がはっきりする。日本人が話下手な一因は、こういう耳や口を軽視する風潮にも一因があるようだ。 日本人にくらべると、タイ人ははるかに耳の民族、聴覚民族だ。衆知のように、この国では国民教育が実施されるまでは、子弟の教育はもっぱら僧侶の手にゆだねられており、その教育方針は一口でいうなら、ロから耳への妨主丸暗記式のものであった。いまでも仏日などに寺院を訪れてみるがいい。意味もわからないバーリ語戒律を驚くべき速度と正確さで5時間も6時間も僧侶が読誦しているのに出くわすことがある。筆者も僧籍の経験があるが、今だにロをついてでるバーリ語のお経の文句は、その意味を一切教えてもらわなかった。 ともあれ、タイの教育にはいまだに、ロうつしの暗記教育が幅をきかせている。試験などでも教科書の何ページかをまるまる書かせるような問題にでくわす。英語の単語を覚えるにしても、日本人のように書いたりしないで、「シー・エー・ティー=キャット、“メーウ(ねこ)”」と吟唱するようにしておばえる。 タイ人が聴覚民族なのは、言葉がミュージカル・ランゲージということもあるだろう。電話番号にしても語呂あわせにたよらず、歌うようにしておぼえてしまうし、発音の微妙な差異をたくみにききわける。筆者が何年か前にタイ人のニックネームを調査したとき、ある五人兄弟のニックネームは次のようであった。プム、ペム、パム、ポム、ペン。きょうだいには、母音だけを違えた似せた愛杯をわざとつける風習がタイにはあるが、それにしても、親に名前をよばれたりした時よく混同しないものだと感心してしまう。 われわれ読み書き民族にくらべ、タイ人は話が上手だし、演説もうまい。彼らは話し下手をきらう。教養とは、タイ人にとってはまずロをついてでることばのことだ。タイ語に「パーク・ペン・エーク、レーク・ペン・トー、ナンスー・ペン・トリー」(ロが一番、勘定上手が二番で、書物の学は三の次)という人の善し悪しをきめる基準を示す諺があるが、日本人の国際化のためにも、日・タイ理解の深化のためにも、もって銘すべき言であろう。
|