| タイ紀行:1964年 |
| この拙稿は、1964年大学3年の時のタイ紀行です。40年以上も前のものですが、今のタイ社会と比較する上の1資料になると思います。 1962年堀江謙一 青年が太平洋をヨットで横断しました。その快挙を聞いたとき、私はすぐタイへ船で行こうと決めました。翌1963年タイ国調査団を組織し、産経新聞社の後援を得て【メモ:当時の記事】、1年間かけて300社の企業訪問をおこない、賛助金をおねがいしました。当時は、外貨持ち出しの制限が厳しく、元日銀総裁の一万田尚登(いちまだひさと)氏のお世話になりました。この年は早稲田大学とわが調査団だけが渡航したとおもいます。 台風の下、貨物船峰島丸で福岡の門司港を出て、戦火のベトナムのサイゴン(ホーチミン市)を経て、バンコク港に到着しました。2週間ほどかかりました。 40年間の間に、中国語が通じなくなり、漢字をわかる者が激減し、華僑はタイ人となりました。また、西洋化が一段と進みました。日本との差もちじまり、身長も伸び、女性がきれいになりました。女性が高くなり、きれいになっているかどうかを、私は経済発展の目安にしています。ベトナムはもうすぐきれいになるでしょう。インドネシアはまだもうすこしかかりそうです。 2004年5月。 |
バンコクは水の都ではない バンコク(タイ名はクルーンテープ)は、「水の都」、「東洋のペニス」といわれている。昨今の東南アジアブームに由来する数々の写真集をながめても、観光客用だから仕方がないものの、水上生活者や水上市場をもって、バンコクの特色とし、日本人のエキゾチシズムにうったえているのが多い。しかし、バンコクが「水の都」であったのは、数年前までのことで、今はこのことばを返上すべき時期にきている。 事実、タイ人は今だにバンコクを「水の都」とよばれることに屈辱を感じており(つまり「水の都」=田舎都市、低開発都市)、この汚名をなくすべく、この都市の近代化に、ここ数年来猛烈に努力してきている。道路の拡張のため市内電車は廃止寸前にあり、運河は道路にかえられ、蚊の繁殖源である堀割(クローン)はうめられていく。空地や木造住宅のあとには、近代的なビルがどんどんたてられ、ちっぽけな水上市場も今や観光用としてしか存在価値はない。バンコクは、もはや「水の都」ではない。タイ人でさえその変貌ぶりに目をみはる。
バンコクには,タイはない 東京よりも国際航空線が多く、国連機関も八つを数え、日本の各新聞社の東南アジア支局もシンガポールからここに移されている。国際会議の多くもここで開催され、名実共に東南アジアの中心だ。バンコクは、この国の政治、経済、文化すべての中心であり、この国唯一の近代都市だ。日本の大都会とかわらない。「タイからバンコクをのぞいたものが真のタイだ」といわれるゆえんだ。タイ国第2の都市チェンマイが人口20万にみたないことからも、上記のことは了解される。バンコクには,タイ的なものはあってもタイはない。すなわち、旅行者用のタイ文化の「かんづめ」はあっても、タイはないのである。
仏都バンコクには700もの寺院が とはいっても,一つだけ例外がある。それは寺院と僧侶だ。オレンジとグリーンの強烈な色彩をほどこした寺々の屋根に眼を移すと、「ああ、ここはタイだな」と実感がわいてくる。仏都バンコクには700もの寺院があり,僧侶が実に多い。とくに最近では、バンコクの近代化に伴って地方との較差がますます拡大しつつあるので、学ぶにも托鉢するにしても、生活するにしても、地方より格段に楽なバンコクに坊さんは集中しつつある。全国に35万人もいるといわれる坊さんが、朝まだきに鉄鉢とズタ袋をもって托鉢にでかける姿はみものだ。あかね色の衣をまとったお坊さんに、人びとは朝食前の残飯をうやうやしく献ずる。坊さんが頭をさげる日本とは逆である。僧侶の専門病院まであるほど僧侶は国家国民の庇護をうけている。 だいたいこの国は、国民皆僧の国で、男子は一生に一度三ケ月ほど僧院に入る。これをすませないと,結婚にも障害があり,社会的地位もえられない。現国王も三ケ月ほど髪をそり僧侶になったほどである。よく民家に僧侶の写真が飾ってあるのをみるが、これは僧侶時代の現国王のものであることが多い。戒律はきびしく、食事は宗派によって一日一回、あるいは二回しか許されず、女性にふれることは固く禁じられている。日本の女性がお坊さんと写真をとろうとしたら、「あまり近よらないで下さい」といわれたこともある。 知見しうる限り現在三人の日本人が、僧院生活を送っているが、外国人が僧籍を得るのはそれほど簡単ではない。というのは、勢力ある寺院となると自治権をもっていて、警察権の介入を許さないし、ビザに関係なしに無期滞在でき、生活費はいらず、バスにもただで乗れ、汽車賃は格安ときているので、逃亡者・密入国者やスパイに好都合なかくれ家だからだ。陸軍参謀の辻正信は、二次大戦中僧侶となって英軍の追及をのがれた。 公衆の面前で手をつないがない さきほど、僧侶は女性にはふれない、といったが、これは一般人の場合にもあてはまり、公衆の面前で手をつないで歩いているアベックはまずみない。タイの社交ダンスは男女が手をにぎるだけで身体は接しない。肌をふれあうことは、愛よりも性欲を表現する卑しい行為と考えられているからである。これは、「バンコクは都市だが、バンコク人は都会人ではない」ということの例証であると共に、彼らの道徳的潔癖性をものがたっている。この国では、一人きりで水浴びするときでも女性は浴室で衣服をつけたままでからだを洗う。自分で自分の裸をみることでさえ、はずかしいことだとされている。病気になってもからだを露出するのがはずかしい故に、医者に行きたがらない。
仏教が価値体系の最高 この国は外国に物質的援助はあおぐが、宗教、道徳などの精神的なものには見向きもせず、固有の道徳体系の優越性を信じ頑なにそれを守る。公序良俗が植民地経験がないことも原因して、西欧文明にソフィストケイトされていず、仏教を価値体系の最高においているため、その道徳水準は高い。 俗に、タイには、ケンカ、立小便、酔っぱらいがいないといわれているが、そのとおりだ。もっとも立小便をしないのはすわり小便をやるからで、それにしてもそういう光景にぶつかることはまずない。交通道徳にしてもそうで、バンコクには、東京とちがって、鉄道や利用しうる市内電車がないため、ラッシュアワーは車の氾濫で、その混雑は東京並みだが、やけつくような暑さのなかで、タイ人はおとなしくルールを守っている。汽車の中も思ったより清潔だ。ゴミはまずちらかっていない。タイ人は自分の服装や身辺を清潔に保つ、きれいずきな国民だ。
静かなる威厳と丁寧さ 彼らは、静かなる威厳と丁寧さをもっている。国全体が牧歌的でのんびりしている。ちゃきちゃきのバンコク市民にさえ、いなかの雰囲気が感じられるのもこのせいだろう。歩き方にしても、ゆったりしていて、日本人風に歩くとタイの大男もどんどんぬいてしまう。別段急ぐ用がないからだろうが、それにしても腰を回転させるようにして、いつのまにか足をだすその歩き方は夢遊病者を思わせる。波の間に間に浮いているようだ。しかし、この歩き方はその風土に合致しているのだろう。日本人のように歩いたら発汗して疲労が多い。
金は装飾品で動産 女性は装飾ずきで、金の腕輪やネックレスをしている。信用機構の未発達が原因で、貯蓄額念がうすいために、銀行に貯金するかわりに金(きん)をかう。金は装飾品であると共に大切な動産である。これをあきなう金行は繁盛している。そういえば、金色を彼女らは好むようだ。仏象は金色に輝き、寺の屋根も黄色系統だ。黄色はタイ人にとって,高貴な色なのだろうか。僧衣も最近まで黄色だったが、どういうわけか今はあかね色だ。アカネ色の衣をつけた子供の僧に威厳を感ずるのも、彼らの悟ったような顔付きからだけではないのかもしれない。僧衣の影響もあるのだろう。 子供はよくほほえむ 一般に子供は上品で人なつっこい。よくほほえむ。古都スコータイの北にあるシーサムロン村に方言採集にいったとき、わずか1日で村の子供と知りあいになり、調査が大いにはかどった。こちらがほほえむと、必ず、ほほえみかえす。別に意味はないのだ。わけもなくほほえむことができるというのは、東洋人の特技、ほこるべき便利な社交道具だ。彼らは、ほほえむのであって、声をあげて笑うのではない。 失笑をかったとき、手で口をおおうのは日本人と同じだが、この国の人は大声をたてて、笑うことをしない。破顔大笑したり、どなったりしているのは、中国人か日本人だ。先進国でないのに、それに特有の悲惨さ、あせりがなく、礼儀正しくおとなしい。「王者の民は悠々たり」といったところだ。
各人は自由に行動 いわゆる人口過剰からくるアジア的赤貧は、この国ではみられない。「貧困はあっても、飢餓はない」といわれるゆえんである。農民は、ほとんど自作農であり、小作農は捨象しうる部分にすぎない。農民一撥をこの国は経験したことがない。タイ農村には、包括的機構、階級組織は有せず、すべてが個人を中心に展開する。個人は公式の独立組織には参加せず、自分の生活領域にとじこもる。日本のように「イエ」も存せず、村への忠誠心はなく、その上宗教は自身による救済を教えている故、各人は自由に行動する。タイ人の団体行動の未熟さも、こういったところに原因がある。
農村的個人主義と仏教の自足からくる一般的満足 その波の間に間に浮いているような歩き方が示すごとく、彼らは生活面においても海図と羅針盤なしに漂流している、といえる。こういった農村的個人主義と仏教の自足からくる一般的満足こそが、タイ人の性格を物語っている。このことから「タイ人は他人に迷惑、困惑を与えないように気を配る人種である」ということも容易にうなずける。彼らは人間関係へのダイレクトなアプローチは不作法と考える。前にも述べたように、静かなる威厳と優雅な丁寧さがその特質だ。両手を軽く合わせるこの国独自の挨拶の仕方がこれを象徴しているようだ。
少ない男女較差 この国は,男女較差が少ない。女は男と同様の相続権、所有権を有し、夫と同様の気安さと自由さで離婚する。企業家精神がないため、タイ人は官吏となることを最高の栄誉と考えるが、女性官吏の多いことは特筆すべきだ。大学にも女性が多く、タイ第一のチュラロンコーン大学にしても、1963年の場合男子学生3551人に対し、女子学生2635人を数えている。さらに教授陣をみると、562人中248人が女性であり、その能力は劣らない。肉体労働においても女性の数は、男性にひけをとらない。女性ドライバーの多さも目を引く。昔からタイ女性の勤勉、優秀さは証明ずみである。
親日的 タイ人は親日家だ。それは、日本が欧米列強に伍してがんばっている唯一のアジアの国家というだけでなく、もともと日本とタイは古くからの仏教国、独立国であり、顔かたちが似ていて、かつたいした衝突もなく、三百数十年間にわたり友好関係を保ってきたからである。日本人が街を歩くと、「コン・ジープン(日本人)、コン・ジープン」と親しげにほほえむ。ネクタイと歩き方で一目で日本人とわかるのだ。この国の人はあまりネクタイをしない。 また、日本の女性には特に親切で、日本女性が道路を横断しようとマゴマゴしていると、おまわりさんが道行く車を全部とめてしまったことを実見した。日本製品もなかなか人気があり,タクシーの半分近くは日本製だ。近年タイ政府の輸入するトラックの9割は日本からのものであり、乗用車としても輸入台数の上位三位は日本の独占だ。あるとき下宿のメイドさんに、「薬の空瓶をください。田舎の父に記念に送りたいから」と頼まれたことがあるが、日本製品の評判をものがたるエピソードだと思う。日本の薬の空瓶まで価値があるのだ。実際彼らは日本のものだと何でもほしがる。 日本映画の専門劇場もあり,三流作品にもかかわらず好評を博している。テレビでも日本のテレビ映画が連日写しだされている。勿論これらはすべてタイ語に吹きかえてある。タイ語を話す中村錦之助にはきつねにつつまれた感じがした。ロードショウ劇場では吹きかえをやらないので、字幕はタイ語と中国語だ。 |
| 英語は日本と同様
植民地経験がないため、かえってタイは日本と同様英語の通用しにくい国である。また,英語がへたなのは,タイ語の特異な発音法の影響もある。たとえば、タイ文字では、語尾の“l(エル)”は“n”に発音する。これを彼らは英語にもあてはめてしまう。ホテルは「ホーテン」、プールは「プーン」、ボールは「ボーン」といった具合だ。「JAL(日本航空)の事務所はどこですか」ときくと、「ジャンはあそこだ」とこたえる。 映画館は立派だが、一般にバンコクの娯楽、文化機関は、貧弱で民衆の手のとどかないところにある。悠長な甘いメロディーのタイ音楽や、キヨ・サカモトの「スキヤキ・ソング」、「黒田節」のタイ語版はきけても、ベートーベン、モーツァルトを鑑賞できるチャンスはまずない。映画館で日本と変っているところといえば、映画が終ると国王の写真が写しだされ、国王讃歌が演奏されるということである。この間、観客は全員起立する。 国民の敬愛を集めている王室 王室の人気は毎年ブロマイドの売上げのベストワンが、シリキット王妃であることからも察せられる。国王は政治権力がないだけに、かえって政党のみにくい争いから超然となりえ、また仏教の擁護者であることから、その個人的魅力とあいまって、国民の敬愛を一身に集めている。たまたま私は、観劇から帰られる国王夫妻を目撃する機会をえた。会場であるタマサート大の講堂から乗車地点までの間は、夫妻を見送る人でいっぱいであったが、護衛はほんの申し訳程度にしか行われていなかった。 警護の必要がないほど王室は,国民の絶対的信頼をかち得ているのだ。官憲が眼を光らせているのは、私外国人に対してだけである。国王夫妻はこのように率先して、気さくに民間の催しに参加し、国民と一体であることを身をもって示している。(後年、私自身も国王夫妻来日の折、学生の身でありながら期するところあって、拝閲を乞うたら、日本人学生に興味もあってか、夫妻で気楽に単独でお会いしてくださった)。 在タイ中、私は国王夫妻のブロマイドをパス入れにもって歩くことにした。これが一種の免罪符になることを発見したからだ。何かこの国の人たちとの間にいざこざが生じたとき、「私は外国人だがこんなに国王夫妻を敬慕しているんだぞい」といいたげに、ポケットからパス入れをとりだすと、彼らにはそれが呪文となり感情がやわらぐのだ。 華僑を優遇 王室は,華僑からさえも好感と親愛感をもたれている。華僑の商店をのぞくと大てい国王の写真が掲げられている。これには外交的意味あいもあるのだろうが、歴史的にみてタイの国王は例外はあるにせよ、概して華僑優遇策をとってきたという事実があるからだ。17世紀はじめに、この国は「国王独占貿易」の手段として、当時万近くいた華僑を貿易業務に適任であるとし、採用した。これ以後華僑は王室の愛顧をうけ、現地民のタイ人よりも多くの自由を与えられ「王室華僑」とよばれるようになったのだ。華僑の血を引くターク・シン王の出現や政府の華僑移入奨励策により、タイ国内の華僑は急増し、今では東南アジア中この国に華僑が一番多い。
バンコクのほとんどの店は華僑の経営 バンコクであった中年の日本人観光客が、「タイ人は中国語が上手ですねえ」とおどろいていたが、実情を知らなさすべる。この国には、国籍はタイ人であるが血統上は華僑である者が350万人いるといわれ、バンコクの人口の半分は華僑が占めている。映画にしても中国語の字幕をいれないと、客が半減するのである。中国語とくに潮州語が話せないと商売にも支障があるという。中国の祭日、正月に街にでたら、ほとんどの店が休んでいるのに気がつく。この国の祭日にはこんなことはない。店の看板にはタイ文字と中国語がかかれている。そのタイ文字は、サリット前首相の指令により加えられることになったのだという。 現地化する華僑 伝統的に商売をきらうタイ人の代替人として便利な存在である華僑を観迎してきた政府が、そのあまりの強力に驚愕し、弾圧政策をとりだしたのは1938年のピブン政権を最初とする。その後弾圧と融和の政策を反復してきたが、私の感じでは政府のアンチ・華僑運動に、国民はきく耳はもたず、彼らを仲間と考えて、違和感をもっていない、といえる。現在では、政府は華僑の現地永住化、その資本の定着化の政策をとっている。 この策は賢明といえ、望郷と本国送金を特質とする華僑もタイ国民に同化しつつある。とくに上流階級は資本の防衛のために、下層華僑はタイ人と同様のチャンスで職をえるために、タイ国籍をえるようになり、現地化の傾向は大だ。ただ中流階級には、本国と連絡を保ち、中国の生活をし、あくまでも中国人であろうとするものが若干みられる。しかし、1948年以来タイ国への外国人長期滞在者は年間200名に制限されているので、新来者の不足のため純粋の華僑も同化せざるをえなくなってきている。「現在、タイに華僑問題はない」とする論者もいるくらいだ。 実力民族集団は,華僑とタイ人の混血 現在この国の実力民族集団は,華僑とタイ人の混血によるものである。中国人の父とタイ人の母の間に生まれたルーク・チン(僑生)は、華僑の野望、仕事欲とタイ人のやさしさ、楽天さを兼備した優秀な存在として評価されている。天の配剤よろしきをえた彼らは、みずからを100パーセントのタイ人と自任している。タイ国歴代首相はすべて中国人の血を引く。唯一の例外はサリット前首相のみである。 このように華僑は優越感をもって、タイ社会に浸透しつつある。タイ人は華僑に一目おく。標準タイ語の通じない地方へ行って、料理を注文する際に、経営者の華僑に漢字でオーダーすると彼らはわれわれを仲間にあつかい、タイ人はわれわれを尊敬する。外見上タイ人と華僑は、見分けがつかないことが多く、漢字が書けるかどうかが判別の有力な手がかりとなっている。就職時にも、会社側は、どうしてもタイ人よりも仕事熱心な華僑の方を好むので、判別方法として氏名を漢字でかかせることを試みる。 辛さ抜群のとうがらし タイ料理と中国料理もわれわれには、見分けがつかない。「あのタイ料理,うまかったな。もう一度食べよう」と別の店へ行くと、「これは中国料理ですよ」なんていわれる。混然化しているのだ。タイ料理か中国料理か知らないが、とにかくここの料理は、においが強烈で辛い。ほとんどすべての料理に、油っこい椰子油、にんにく、とうがらしに強烈な香辛料がつかわれるからだ。にんにくのにおいやとうがらしの辛さに耐えられない日本人は、タイ向きでない。 当初は、とうがらしの辛さに閉口したが、暑気を防ぎ、食欲を増すもとになるので、なれればこの味は忘れられない。果物は安く豊富だ。バナナは20円もだせば、一房くる。ただドリアンという果物は、味はいいのだがくさくて食べられない日本人が多い。汽車のなかでこれを食べると、車内中に強烈ににおう。「ドリアンを食べられるようになれば、タイに同化した」といわれるが、なかなかそうならないようだ。
話し好き タイ人は話しずきな国民だ。酒宴をのぞいてみると、大勢がいつ果てるともなく何やら話している。さしつさされつ、その楽しそうな光景は日本とあまり変りはない。ただ、彼らの話は、常に具体的、現実的であって、抽象的、観念的な話はしない。 抽象論は苦手 タイ人は抽象論が苦手だ。大学に哲学科はない。この国の唯一の理論的学問である仏教理論にしても、小乗仏教の断片性にわざわいされ、理論研究、思弁よりもお経の暗誦を主眼とする。その昔、印刷時の未発達時の記憶重点主義がいまだに影響している。優秀な生徒とは、先生の口授をいかに再生できるかによって決定される。創造的能力が欠如し、思想に深みや統一性がないのもこのためだ。タイ人は、深遠なる哲学的課題には関心を示さない。しかし、具体的現象の取り扱いには長じている。 臨機応変的な外交 これはこの国の外交政策にもあらわれている。彼らは現実的故に、外の変化への対応が敏感である。インドシナ半島の一等地に位置するこの国は周辺からの侵略に常にさらされていたが、油断することなく、たくみに政治的独立の警防に当つてきた。近代になってもその卓抜な外交手腕により、領土割譲などの犠牲を払いながらも、西欧帝国主義から東南アジア諸国のなかでただ一人独立を保ちつづけてきた。臨機応変的な外交の妙をこころえ、自国の防衛独立のためなら、主義主張も原理原則も二の次とする。また「屈する」ことは、あっても、それは独立を守り、さらに後年「伸びん」がためなのであった。 しかし、過去においてその選択外交により、幾多の危機をのりこえてきたこの国も、今やますます輻輳化する現在の国際環境では、その「傍観主義的政策」、「その場当り的政策」に筋金を入れる時期がきている。主体性を失い、他人の顔色をうかがって力の均衡のみに留意する大勢追随主義では、指向する近代化への道は遠いといわねばならない。何らのビジョンもない国民不在の政治では、国家を安楽にみちびいくことはできない。このあまり豊かでない国家の、国民の潜在的可能性を現実化することが政治ではないだろうか。この国は形だけは民主主義だが、今だに民意が政治に反映するにいたっておらず、国民は貧しい。
ぼうふらがいる水はきれい 私は、はじめにタイ人はゆったりしておとなしいと規定づけたが、これは都会や裕福な地方でのことで、東北タイなどではこのことは大いに留保が必要だ。毎年洪水、干ばつに悩まされ、何十年働いても家財道具もなく家とは呼ベないあばら家にしか住めない農民が、積極的に快活でおれるはずがない。あのタイ人のおとなしい、やさしいという性質は無気力、あきらめの裏返しで、それがあまりに板についてしまったらわからないだけなのかもしれないのだ。だいたい、タイの歴史は移動と征服のそれである。あの強大なモン帝国とクメール帝国を押し分けて、現在の地に居を構えた彼らを、おとなしい、やさしいだけで規定できるはずがない。 貯金の余裕のない農民 この国は国民の8割以上が農民である農業国家である。しかし、この国に実質的な農民政策はなく、政府は農民からうばいとる以外の何ものもしていず、国民の1割しか住んでいないバンコクにすべてを傾注している。タイはバンコクのためにある、といわれるが、いつの日この関係が逆転されるのであろうか。 待たれる有効な農民政策 |