美は外形にあり:タイ人の美的概念

桑原政則   タイのページ    


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タイ社会と日本社会はうわべは似ている

 タイ社会と日本社会は,アメリカにくらべれば似ているところが多い。君主制で、仏教国であり、植民地経験がない。また、でしゃばらない、とか、スマイルを得意とするとかの価値観も共通だ。その他稲作を基盤にする社会ということで類似するものが多い。 

 しかし、両国間には、その自然的環境と長い歴史的道程およびその経済社会構造などに大きなちがいがあり、うわべは類似するようにみえても、実質は同じでないものが多く、タイと日本の価値観には差があるものも多い。この差を知らず、安易な日タイ社会同系説におちいっていると思わぬ誤解や悲劇が生まれることがある。 

日本人は身内?

 たとえば,反米行動や反日行動を例にとってみよう。タイ人が反米行動をおこしても、その底にはアメリカに対する信頼感、その歴史文化やビへイビア・パターンに対する理解というものが流れており、従って感情的に先走った反米運動も、最後には知米意識にささえられた理性的な、いわば「半米」抗義で終わるのが普通である。しかし、その同じタイ人が反日行動にでるや、日本への誤解と不信にみちあふれた感情的な、不気味な「排日」運動に一気に突っ走ってしまう。  

 従来、このようなタイ人の対米、対日行動のパターンのちがいは日本人に対する近親憎悪からくるものだ、と説明されてきた。つまり、自分たちと何もかもちがう白人に対しては、いわば別世界の人間だからみすごせることも、同じアジア人同士で、稲作民族の日本人に対してはゆるせない。いわば、日本人は身内だからこそゆるせない、という解釈である。 

 もちろん、「かわいさあまって、憎さ百倍」の身内意識もあるだろうが、しかし、これらの事象は日・タイ社会同系説だけでは説明しきれないものがある。真因は別にあるようだ。どうもタイ社会は日本社会よりはるかにアメリカ社会に近く、タイ人にはアメリカは理解できても、“身内”の日本のことはわからず、みかけとは逆に、「アメリカは遠くて近い国」であり、「日本は近くて遠い国」のようだ。 

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「スワイ」は「きれい」と同じ?

 タイ社会で頻用されることばに,「スワイ」がある。これは<きれい、美しい>という意味で、このことばをタイ人は家庭で市場で、職場でじつに頻繁にもちいる(タイ語には、中国語のように声調があり、このスワイsuaiは尻上がりに発音する。平板にスワイsuaiと発音とすると<悪運の、中国語「衰」より>という意味になる。日本人はよく混同して発音しがちである)。日本人は「きれい」という語を日に何回もちいるであろうか。 

 スワイと日本語の「きれい」は同じ意味なのに、使用頻度が両社会では大いにちがう。これはなぜであろうか。タイの山川草木が、日本のよりきれいだからとか、あるいはタイ人の美的感覚が日本人とははなはだしくちがっているからであろうか。そうではなくて、これは、根本的にはスワイと「きれい」の意味内容、価値観がことなるからだと考えられる。 

 ところでタイ人にとって,日本女性はよほど美人にうつるのであろう。タイ人が通りすがりの、あるいはテレビにあらわれる日本婦人をくいいるようにみつめては、スワイを連発している光景によくぶつかる。失礼ながら、日本ではどこからどうみても並の下と断言できる女性にまでタイ人はスワイの評価をあたえている。これは、決して遠来の外国人に対する外交辞令として言っているのではない、心からそう思っているようである。 

 では,タイ人にとって日本女性はどこがスワイなのか。どうも仔細に観察してみると、スワイかどうかは内面からくるようなものではなくて、どうも皮膚の色、服装、髪形によってきめられるようだ。 

 筆者が在タイのおり、ボクシングのモハメッド・アリのタイトル戦がタイでテレビ放映されたことがある。翌日、あるアメリカ婦人にアリについての感想を求めたところ、第一声が「彼は今のスポーツマンの中でもっともハンサムです」という返事であった。ところが、誰もたずねもしないのに、その場にいあわせたタイ女学生達が、「アリは強いですが、ハンサムではありません。色が黒いですから」と反駁していたのが印象的だった。タイにおいては、色黒ければ、美人、美男子たる資格はないのだ。 

 タイ人は美人コンテストが大好きだが、そういったコンテストにきまってえらばれるのが、中国系であるのも、またチェンマイが美人の産地だとされているのも、すべて彼女らの肌の白さに大いに関係がある。タイには印僑がおり、西欧人顔まけの彫りの深いアーリア系インド美人、日本人からみればとびきりの美人がごろごろいるが、彼女らは決してコンテストでは入賞できない。 

色白が一番

 タイの上流家庭では子守りをおくのがふつうだが、子守りの大きな役目の一つは、男女の区別なく幼児をひなたで遊ばせないように見守ることである。華僑系タイ人のうちでは、真珠の粉を幼児に飲ませるが、色白の特効薬と信じてのことである。またタイ人が、特にインテリが肉体労働をいとい見くだすのは、これが太陽のさんさんとふりそそぐもとでの野外労働だからである。 

 タイ人が長そでを好むのは肌を焼かれたくないということと、また焼かれた黒い肌をみせたくないということなのであろう。さらには、伝統的に体の露出を嫌悪する習癖にも関係があるかもしれない。女性は水泳時にも全身を衣服でおおったままであるし、伝統的な女性は一人で浴室で水浴びするときでさえ、全裸にはならないという。 

外見重視

 次に、スワイの要件として、色白の他に服装が大いに関係あることは、きもの姿の日本女性は中身に関係なく、例外なく、スワイと評せられることからも察せられる。タイ人にとっては、外がきれいだと、中身もそれに付随してきれいになってしまうようだ。逆に外形が無残だと、たとえいくら中身が立派であっても、あるいはまたいくら人間の本質は、内面に、心にあるのだと抗弁しても通じはしない。ヒッピー風異装の者に対するタイ人の目つきは、冷酷なまるで蛇でも見るそれだ。 

 外国人ジャーナリストがタイで尊敬されないのは、同国でのジャーナリストの地位の低いことの他に無頓着な服装や髪形にも原因がある。タイで、男子がロー<美男子>とよばれるためには整髪、長そでシャツ、ネクタイの三拍子がそろっていなければならない。 

 軍人などが勲章や記章で、また学生が卒業式などに金モールで自己を飾り立てるのも、晴がましい、誇らしいことであって、日本人のような恥ずかしさはない。芥川龍之介の軍人に対する、かの辛辣な箴言もこの国には通用しない。  

 このように美は外形にあるからこそ、人間の服装ばかりでなく、トラックもあのようにケバケバ飾りたてるわけである。お寺や仏像はキラキラピカピカしているほどよいわけで、古ければ「時代がつく」などということはありえない。 

容易に使われる「スワイ」

 日本女性が、スワイと解せられる原因には色白、服装の他に、さらにスワイという語の使用範囲の広さとも関係がある。サッカーのボールがゴールに入ってもスワイ、ゴルフの球がカップに入ってもスワイ、かっこよければ、並以上であればスワイの範疇に入る。

 日本の場合は,外形がいくらよく見えても,問題は内容なのだ。美は内面にあるのだという意識が強いから、「美しい」とはなかなか発しがたいけれど、タイでは「ものの価値は外形にある」わけだから実に容易にスワイと発せられるのであろう。 

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できなくても、できる?

 ところでスワイの他に、タイ語には日本語よりもはるかに定義領域が広い語は多くある。たとえば,可能を表わすダイという語がそれだ。「水泳はできますか?」、「タイプはどうですか」、「中国語しゃべれる?」といった質問に、「ダイ(できます)」とこたえた人物が、実はろくすっぽできないことがある。会社で上司の日本人は、一体なんだといって怒りなげく。 

 これなどダイをストレートに「できる」と訳した悲劇である。ダイ(できる)の下限は日本語よりはるかに低く、たとえ5メートルしか泳げなくても、一力月しかタイプを習わなくとも「ダイ」、あいさつ程度の中国語しかできなくても「ダイ」でよろしい。つまり「ダイ」は、「できる」と訳せるが、「心得がある、たしなむ程度にできる」との意味もあることを知っておくことが必要である。 

知り合いはみんな友達

 それを知らないために、タイ人不信感におちいっている日本人の何と多いことだろう。ついでいにいえば、タイ語のプアン(友達)も日本語の友達よりはるかに意味が広い。日本語の「友達」は、同年齢のものに限られ、幼児から深くつきあっているものに限られる。友人の数は10人もいれば多い方だ。 

 したがって年をとるにつれて友人の数は少なくなる。タイ人の場合は、きのう知りあってもプアン(友達)、運転手と社長でもプアンである。これは、よく現地の日本人からきくのだが、タイ人がほらふきだというのではなく、プアンという語のもつ意味が広いからにすぎない。つまりプアンには、<友人>の他に<知り合い、なじみ、上司・部下、近所の人>も入ると考えた方がよい。タイ人にとって日本人とは逆に、プアンは日ごとふえていく。 

タイ人とうまくつきあうには

 ダイの他にディー<よい>とかケン<上手>も同様である。タイ人に、このようにほめられた場合には、日本の基準からは大いに割りびいて受けとる必要がある。逆に、タイ人と接する場合には、大いにスワイ、ダイ、ディー、ケンを連発すべきだろう。このようにタイ語では、一般にプラス価値の語は日本語より意義的域が広いといえよう。 

否定語はあまり使わない

 これらの語の否定には、否定詞マイをつけて、マイ・スワイ<きれいでない>、マイ・ダイ<できない>、マイ・ディー<よくない>、マイ・ケン<うまくない>というのがふつうで、日本語の「ぶす」、「きたない」、「悪い」、「へた」といった別語による否定は、よほど否定の度合が強い場合でないと用いない。 

美は善なり

 どんな言語でも多少なりともそうであるが、美であることは、善とも重なり合うことが多い。タイ語の場合は、スワイのなかに「善」という意味が大きなウエイトをしめている。ゴルフの球がまっすぐ飛ぶことは、きれいでもあり、よいこと、つまりスワイであるわけだ。逆に、よければスワイであることも多く、こんなこともスワイの対象範囲を大きくするのにあずかっているのであろう。 

 タイ人が外国人に自慢することの一つに,王妃が美人であることがある。かつて皇太子夫妻の訪タイ時に、筆者はたまたまタイに居あわせたが、よくタイ人から、「王妃さまとミチコとどちらがスワイか」と、新聞の写真を手にきかれたものだった。わからないとも答えられず、「日本人にはミチコの方がきれいにみえるが、国際的にはプララーチニーだとタイの新聞ではいっているね」と答えても、「どうして、日本人はミチコの方がきれいだと思うのか」と、なかなかひきさがらなかったのを思いだす。タイ人にとって美イコール善であるだけに、どちらがきれいかということは、重大な、軽卒には受け流せない問題なのだろう。  

富貴併存社会

 また、タイにはからだの不自由な人たちが大ぜいいるが、タイ人は彼らに同情しない。これも同様の理由からである。彼らは美しくない、つまり善人ではないのである。かわいそうであるけれども、彼らは前世の因縁でそうなった罰あたり者、うらむなら前世をうらめ、というわけである。身体が不自由な者は仏門にもはいれない。なお、物乞いなどに施し物を与えるのは、これとは別の理由で徳を積むためである。 

 この意味でタイはまことに富貴併存社会である。お金持は、前世でのおこないが「善」であったから、今の地位にあるので、そういう「善人」は貴い人でもあるのだ、という考え方だ。もちろん、富貴併存社会の頂点に立つのは国王だ。 

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形式主義

 このようにスワイの意味は、日本語のそれとは甚だ懸隔するものがあるが、私達日本人がタイ社会の理解のために最も留意すべきことは、タイ人の「美は外形にあり」とするこの形式主義性であろう。というのは、この形式主義は、美的感覚にかぎらずタイ人の日常生活の世界観をも支配しているからである。タイ人の外形主義をしめすエピソードとして、筆者は次のようなことを実見した。 

自動車はステイタスシンボル

 ある印刷屋の社長が、新車を手に入れ、今までの自分の軽自動車を部下のセールスマンに使わせることにした。ご承知のように、タイでは自動車はステイタス・シンボルの最たるものであり、また大衆輸送機関はバスしかないため、日本では考えられないほど重宝な代物である。したがってタイ人は、背のびをしてどころか竹馬にのってでも、車を買いたがる。それまでバイクで外回りをしていたセールスマンの嬉々満面の得意笑顔は容易に察せられるのであろう。 

 その彼が、車を受けとってまずやったのは、アンテナをとりつけることであった。ふつうアンテナはラジオのためにあるものだが、ラジオのついてないその車に、彼はアンテナだけ取りつけたのだ。「きれいになったね」とお世辞をいいながらきいてみると、このようなことをするのは、彼だけでなく、自動車部品屋に行けば「にせアンテナ」の商品名で、このスタイタスアップ用のアンテナが市販されているとのことであった。また、「エアコン取付車」というラベルをはりつけ、暑いのに窓をしめきって走っている車もある。 

 性能よりともかく、かっこいい車がタイでは売れ行きがよいのも、また窓ガラスに出身大学のステッカーを貼るのも、外形主義のあらわれと解せるだろう(元日本留学生のタイ人はしない)。 

学ぶべき外形主義

 このようなタイ人の外形主義は、日本人からみれば行きすぎとみられる場合が多く、まじめな日本人ほどこれを毛嫌いする傾向がある。が実は、国際交流、異文化理解の面で、日本人が最も学ぶべきは、タイ人のこの外形主義、「物の実体は外形にある」という考え方だと思われる。この外形主義を,日本人は学ぶ必要がある。 

 言語活動においても、タイ人は外形、つまりロを重視し、「以心伝心」とか「目はロほどにものを言い」とかいったことを本気で実行している日本民族と対照をなす。 

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自己表現の下手な日本人

 日本人は、外形やことばを無視ないし軽視することにかけては稀有な民族といってよいであろう。対人関係においても、「以心伝心」とか「目はロほどに物を言い」といったようなことを本気で実行している民族で、実に自己表現の下手な人間集団である。これは三島由紀夫が喝破し、またグレゴリー・クラークが詳述しているごとく、同質的集団主義によるものと思われる。 

同質的集団主義

 日本民族は,先ほども述べたように実に自己表現の下手な人間集団である。日本人が口下手なのは、日本人が歴史的に人種的にことなる相手との長期的な抗争に巻きこまれなかったからであり、このために純粋な形での同質的集団主義が維持できたからである。  

論争や敵を倒す論理は不要

 つまり家族内においては、成員同士は互いにツーカーであるから、論争や敵を倒す論理は不要である。同様に、家族外においても家族的集団主義がおこなわれ、そこで求められるのは論理や自己主張でなく、集団への調和順応であり、また相手の腹を読みとる感受性であった。

  必要なのは微妙な顔の表情やしぐさ、みぶりなどの非言語的要素から相手の気持を察する察しのよさであった。均質的社会にあっては、他人とは気心の知れた自分の分身のような成員ばかりであるわけで、そんな相手に自己を飾り、自己宣伝をする必要がどこにあるか、というわけである。 

日本ではマイナス要因の外形主義

 こうして日本では、古来より話上手であることは外形だけを飾ろうとするマイナス要因にあげられてきた。「言うは易く、行うは難し」、「口自慢の仕事下手」、「沈黙は多弁にまさる」、「口と財布はしめるが得」、「口は禍いの門」、「巧言令色すくなし仁」、「ことば多ければ品少し」と。  

 日本民族とちがい,タイ民族は歴史的に絶えず他の集団、民族と対立抗争をくりかえしながら、南下移動してきた。移動や戦争のたびに都は移り、政権の支配地は変わり、人種やことばや文化のことなる集団と接し、彼らを抱合してきた。これらの異分子との交わりにおいては、何ら既存の共通項がないために、以心伝心に頼ることは不可能であり、頼れるのは言語によるメッセージしかなかった。  

タイ人は話し上手

 このようなわけで,タイ人は話しことばを大切にし,また実際話が上手である。タイ人にとつて知性とか教養とかは、まず口に現われるものだと考える。「堆弁は金であり、また銀である」、さらに「口が一番、頭(学問)は三番」といったおよそ日本人には考えおよびもつかないことわざが、よくそれを物語っている。 

 もちろん、沈黙をすすめることわざもあるが、それは「へたに話すよりは」という前提づきであって、日本のように「口は禍の門」といった、話すことそのものを戒めるものはない。ある英語学校の宣伝文句にこんなのがあった。「話すことばかりでなく、書くことも教えます」。 

女心をつかむには?

 恋愛においても、彼らはよりアメリカ的である。「きれいだ」,「愛しているよ」と相手をほめそやし,自分の心を口にだして伝える。甘い話を砂糖とはちみつでまぶしてささやく。ときには即興の歌で彼女のハートをくすぐることまでやる。これがうまい。日本の昔の歌垣を中国のタイ族は今でもおこなう。ここまでやらないと、タイの女性はなかなか満足しない。 

 逆にいえば、これくらいのことをやれば、心はどうであれ、女性の心は多少なりとも動くわけだ。タイ映画のメロドラマに登場のプレイボーイは、日本人の眼からは軽佻浮薄そのもので,どうしてあんな者に心を許してしまうのかと思うが、あれはあれでぴったりタイ女性の心情をつかんでいるわけだ。 

タイではもてない日本人

 まじめで寡黙で、地味なタイプの日本人はタイの風土にあわない。というのは、タイ人にいわせれば、かれはクワーイ<水牛>と同じ属性しか有さないからである。クワーイは、タイ人が最もけいべつする動物で、「遊ぶことも知らず、主人のために黙々とはたらくウスノロ」という意味を付与されている。またぶっきらぼうで、まじめくさった人間は「森の人」とよばれる。
 
ほほえみを絶やさず、軽快でさっそうとして、スワイ<きれい>、ディー<よい>、ケン<うまい>がしょっちゅう口をついて出るようになってはじめて、文明人とされる。 

形式主義は日本人に無縁のものであるか?

 このようなタイ人の形式主義性を嫌悪し、これに優越感でのぞむ日本人が多い。その場合、この形式主義のよってきたる原因を、タイ社会の後進性、現世刹那主義などのマイナス面にもとめがちである。つまり、日本とタイが稲作農耕社会という同一基層文化基盤に立ちながら、タイに形式主義が瀰漫(びまん)しているのは近代化がおくれているせいであるとして、形式主義は日本のような近代国家には無縁のものと処理しがちである。 

 しかし、実はこの外形主義は日本以外のほとんどの民族に多少なりとてもみられる傾向である。それらのほとんどの民族は、隣接の異民族、異集団との長期にわたる対立抗争の歴史を有し、それら異分子と常に接触してきているからである。 

 日本では、この外形主義は得体のしれない敵に、いつどこで相対せねばならぬかもしれぬ武者修業者や、南蛮貿易にかかわりをもち異人との交易をはかってきた大阪商人にわずかに見られた。また「京都人は人あたりがよい、外交辞令がうまい」といわれるが、これも、よそ者の闖入や支配に常々さらされていたことに起因する。  

アメリカも外形主義

 外形主義に関しては、人種のルツボ、モザイク社会といわれるアメリカも同様で、「言わず語らずに、心と心」、「以心伝心」とかが、かの地で通じないことはつとに知られている。私たちは、アメリカでのコミュニケーション・ギャップを言葉に熟達していないからだとか、アメリカ文化社会の理解不足のせいにし、逆にタイについては、近代化以前の社会だから、と二元論で解釈してこなかっただろうか。 

文化的国際性

 外形主義は後進性の産物ではなく、異文化と接触交流による産物であり、文化的国際他のあかしである。このようなソフィストケーション(手練手管、洗練さ)を欠くのが日本人である。 

 冒頭にのべた反米、反日運動にもどるならば、タイとアメリカは基層文化は異なるが、共に異文化との接触交流のべテランであるだけに、対人折衝のルールがわかりあえる。が日本人に対しては,タイ人はとまどいを感じがちだろう。というのも、日本人は対人関係の国際性に欠け、自己を語れない失語症民族であるからだ。心を開かない、論争のルールを示さない相手に人はどんな策を講じえようか。 

 こう考えてくると、タイがアメリカや西欧諸国を、日本より高くみてしまうのは、他にも理由があるが、この対人関係の国際性のみをとっても当然のことと首肯せねばならない。喧伝(けんでん)されているタイの外交上手は一朝一夕の偶然のたまものではなく、数百年の歴史の裏うちがあるのである。

  タイのどんな僻地(へきち)の農村を訪れても、農民は笑顔で私たちをむかえいれ、「アジノモト」「トヨタ」など知っている限りの日本語をあげて歓待してくれる。タイは典型的な社交民族である。タイ社会の国際性に、私たちはもっと注目すべきだろう。 

(Source:桑原政則「美は外形にあり」『国際経済』第14巻第14号、1977年12月号)