桑原政則  > タイのページ タイ語の人称代名詞の水準転移について

タイ語の人称代名詞は実質語

 タイ語の人称代名詞は,ポムが<髪の毛→私>に転用されたことからも推測できるように、日本語と同じく実質語である。実質語とは、「僕」がslave、「あなた」がyonderというように、もともとは名詞や副詞などの別の品詞であったもののことである。
西欧語の人称代名詞は、昔から人称代名詞のまま

 ところが、英語、ドイツ語、フランス語などのインドであり、ヨーロッパ諸語では、1人称、2人称は、2000年遡ろうが3000年さかのぼろうが純然たる人称代名詞であり、それ以外の役は負っていない。
  英語 ドイツ語 フランス語 スペイン語 イタリア語
1人称 ich je yo io
2人称 you du tu tu tu

 

自称詞、卑下から尊大へ
 
 タイ語の人称代名詞の特徴は、日本語と同じく、水準転移をおこなうことである。第1人称は、卑下→□□というふうに、上昇運動をおこなう。日本語の「僕」は、“しもべ”という意味であり、かつてはへりくだった言葉、卑下称であったが、上昇運動を続けた結果、今では尊大称となり、目上に対しては使用をはばかるべき自称詞となっている。タイ語の自称詞カーも、奇しくも、もともと<奴隷>という意味であり、日本語と同様に今では目上に対しては用いない。

一人称はもともとは、卑称
 
 カーの他に、現代タイ語の自称詞クーは、目上が目下の対して用いる尊大称<おれ>である。この語もかつては、普通称、卑称であった。このことは、ラーマカムヘン王の碑文(1292)にクーが使われていることからも、また『華夷訳語暹羅館雑事(かいやくご せんらかんざつじ)』(1579)に「我=クー」と記載されていることからも肯首される。

このクーの卑称から普通称への上昇運動は、タイ国タイ語においていちじるしく、その他のタイ語、すなわちミャンマーのシャン語、カームティ語、インドのアホーム語、ベトナムの黒タイ語、トー語、ディオイ語、中国の竜州土語、プーイ語、僮語(どうご)では、クーは以前普通称として採集記録されている。
自称詞 尊大称 僕、カー、クー   対称詞 尊称  
   ↑     
  卑称       蔑称 おまえ
ムン

                                  

対称詞は、尊称から蔑称へ
 
 自称詞とは逆に、youを意味する対称詞は、尊称から蔑称への下降運動をおこなう。かつては、相手に対する尊称であった「おまえ」、またタイ語のムンは、今では目下に対して用いる卑語蔑称である。

このように日本語やタイ語の人称代名詞は、もともと他の意味をもつ□□語からの転用したものであるだけに、語自体に価値観をともなっており、使用するにつれ、本来の用法がすり減っていく傾向がある。このような上下運動は、アジアの多くの言語に見られる。しかし、インド・ヨーロッパ諸語には見られない。
便所→手洗い→トイレ
 
上に見た現象は、日本語の「便所」が婉曲性を失い「手洗い」にかわられ、また「手洗い」が「トイレ」にとってかわられたのと同じ現象である。つまり、便所は不浄の場のイメージが強いので、「ベンジョ」とあらわに口にすると不快な感じを与える。そこでeuphemism(婉曲語法)により、「手洗い」といった婉曲語を用いるわけだが、それとて長い間使っているうちに、本来のeuphemismの機能を失う。そこでさらに別の表現を求めていくことを繰り返すわけである。
トイレ用語には、euphemism が用いられる

 トイレ名称には、日本語に限らず、おおむねどの言語においても、euphemismを用いる。タイ語ではホン・ナーム(部屋・水)と称される。米語においては、toiletという語は、はばかるべき語で、書き言葉ではrestroomを用いる。(ニューヨークのRADIO THEATERでは、さらに間接的にGENTLEMEN'S LOUNGE, LADIES' LOUNGEであった)。話し言葉ではbathroomを用いる。bathを備えていないはずの学校においても、"Where's the bathroom?"などと、bathroomを違和感なく用いる。
敬語はタブー用法から
  
 実は、先に見たタイ語や日本語の敬語表現は、このトイレ表現と同じく、一種のタブー語である。タブー語とは、あからさまに対象をさすような表現を使ってはならない語のことである。トイレ表現の場合には、対象に対する不快感がeuphemismを導いたが、敬語表現の場合には、相手に対する敬意に由来するといえよう。

回りくどい表現によって対象との□□性をさけることによって敬意をあらわしたり、相手を高い場所に置き、また自分を低い場所におくことによって、彼我の距離を一段とあけることにより敬意をあらわすのである。

相手の目を見ないのも、タブー用法から

 ところで、タイ人や日本人が話をする際、相手の目をじっと見ないのもこれと同じことで、□□をそらすことが敬意のあらわれなのである。尊敬や崇拝の対象は見てはいけないのである。講演などにおいて、講演者との目の接触を避けようとするのも、敬意のあらわれなのである。

「ありがたくて目がつぶれる」とは、仏像などのとうとい、それゆえに本来は見てはいけない、物を見つめる時の表現である。逆に他人をじっと見つめると、時には「眼をつけた」といって非難される。敵意、蔑視、侮辱をあらわしたことになるのだ。
 
目を合わせないのが、アジアでは敬意

 タイ語や日本語と同じような敬意表現を有する多くのアジアの言語の話し手は、やはりタイ人や日本人と同様に、目の接触をさけるはずである。(日本は、目を合わせないことが敬意のあらわれなんだ、ということを西欧に対して、声を大にしていうべきである。ことはひとり日本ばかりでなく、アジアの多くの国においても、同様なのだから)。

語学などの時間に、英語を話す時は、相手の目をじっと見るように注意する教師がいるが、これは自分の全人格を変えろというのに等しいことを要求していることを、当の教師は認識すべきであろう。
《解答》
尊大   尊大   直接   直接  

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