ベトナムを歩く
ベトナム地図
ベトナム略史
1883年 フランス、ベトナムを植民地に
1945年 ベトナム民主共和国成立
1954年 南北分割
1965年 米軍直接介入開始
1975年 南ベトナム崩壊
1976年 南北統一(社会主義共和国)
べトナムの国土は ドラゴンの 形
ベトナムの国土は南シナ海に沿って △字を引きのばしたように細長くのびる。 外国人は電話の受話器のようだというが、ベトナム人は誇りをこめて「
ドラゴン 」と形容する。中国文化圏に属するので、ドラゴン(龍)のほうが好ましいのであろう。面積は日本から九州を除いた大きさである。国土の4分の3が山地からなる。北を中国、西をラオス、カンボジアと接する。ラオスとの国境をアンナン(安南)山脈が走る。アンナン山脈は海岸に向かって急降下する。 約60種の少数民族が北部の山岳地帯や中部の高原に割拠する。
北部に首都 ハノイ (河内)、 ホンハ (紅河)川があり、南部に ホーチミン (胡志明)市と、 メコン川 がある。ホンハ川、メコン川の広大なデルタは二大穀倉地帯となっており、人口もこの地域に集中している。古くから開けたホンハ・デルタは、土地利用がすでに限界に達し、人口も過剰となっている。南のメコン・デルタはホンハ・デルタの2倍の広さをもち、開発の潜在力は大きい。
《A》 S
ホンハ・デルタは、ベトナム民族の発展の舞台
ベトナム北部の山地は、ヒマラヤ山系が延長したもので険しい。ホンハ川は、山間に深い峡谷をうがち、下流でホンハ・デルタをつくっている。
雲南の鉄分を大量に含んで赤っぽい色を呈しているので
ホンハ(紅河、Honghe)川【画像】とよばれる。日本の川に似て、流路が短く、傾斜が急で絶えず氾濫する。
ホンハ・デルタでは、流れ来る土砂のため年々川床が上がり□□川となっている。堤防は次第に高くなり、その高さは場所によっては水田面よりも8m
も高く、雨季にはその高さいっぱいに水が流れる。したがって一度決壊すると、被害は甚大である。
東南アジアの雨季の洪水は、一般に稲と魚を育ててくれる恵みと歓迎されるが、ホンハでは洪水は、日本と同様、恐怖の対象となっている。このため、人々は、古来より
協力しあって、治水、築堤 を行ってきた。 北ベトナム人が勤勉で、集団行動が得意 といわれるのも、この ホンハ・デルタとの格闘 に由来するところが大きい。
《A》 天井
越南という国名の由来
ベトナムとは、漢字では「越南」と記される。紀元前、中国の華南地方(福建省、広東省など)は□とよばれた。□は、華南地方に住むいろいろの非漢民族の総称である。ベトナムは、
越地域のさらに南にあったので、越南(ベトナム)とよばれるようになった。
《A》越
ハノイは、ベトナムの首都
ハノイ(Hanoi)はベトナムの首都で、漢字で「
□□ 」と記されるように、 ホンハ川とその支流に囲まれた河の内側 にある。河口から150キロ上流にあるが、標高は6m にすぎない。雨季には、低水時の10m
以上も増水するので、人々は協力して築堤を行って来た。
《A》 河内
メコン川は、東南アジア最大の川
メコン川(Mekhong
river)【画像】は、東南アジア最大の川で全長4200キロ、源をチベットに発し、6ヵ国をうるおす。中国の雲南省では深い渓谷を割って流れ、
ラオスとミャンマー 、ラオスとタイの国境をうるおしつつ、カンボジアを通り、ベトナムに 流れ込み、河口において豊饒なデルタをつくり、南シナ海に注ぐ。
メコン川の水量は、日本の全河川を合わせたよりも多い。 流域面積は日本の国土の2倍以上あり、ベトナムのメコン・デルタの面積は北海道ほどもある。デルタ全面にわたり、運河が縦横に掘られ、これが稲作と水運に利用されており、メコン・デルタは
世界最大の米作地帯 の一つである。
しかし、メコン・デルタ以外のメコン全体についていえば、まだほとんど開発されていない。黄土色の豊かな水を運ぶメコンは無限の可能性を秘めた「眠れる巨人」であるといえよう。
ベトナムの豊饒なデルタ地帯は、 かつて△△△△△の領域 であったが、ベトナム人の1000年以上にわたる南下運動のあげくに、今から
200年ほど前にベトナムがカンボジアから 奪いとった。
《A》 カンボジア
メコン河口の台湾工業団地の計画図
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フエは、ベトナムの□□
フエ(Hue)【画像】は、
ベトナムの中部 にあり、ベトナムの□□(日本の都市)といわれ、落ち着いた上品な雰囲気の都会である。3世紀からインドネシア系のチャム族が住み、
10世紀にはチャンパ王国の中心 であった。1802年にベトナムのグエン朝の首都になった。
オートバイでフエ巡り
軽オートバイ免許不要。赤シャツが桑原政則。1996年。
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《A》 京都
ホーチミン市は、 ベトナム南部の中心都市
ホーチミン市(Hochiminh
City)【画像】は メコン・デルタ にあるベトナム南部の中心都市で、美しい市街地を有し、かつてベトナムがフランスの植民地であったこともあり、「
東洋の△△ 」とよばれた。サイゴン河口から100キロの所にあるが、川幅は300m 、水深10m にもおよぶので、外洋船もここまで楽に遡行(そこう)できる。もともとはカンボジア人が住んでいたが、18世紀末にベトナム人がここを奪った。旧称はサイゴンであり、今の名前は北の政府がつけたものだとして、南の地元民は今でもサイゴンとよぶ人が多い。
《A》 パリ
インドシナ半島の中で唯一の□□文化圏
ベトナムはインドシナ半島の国々の中で唯一□□文化圏 に属する。ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマーはインド文化圏に属する。
《A》 中国
ベトナム史は□□南進史
ベトナムは、前111 年に漢に滅ぼされて以来、 10世紀にわたり中国の直接支配 をうけた。その間絶えざる抵抗を繰り返し、 938年に悲願の独立
を達成する。しかしその後さらに10世紀にわたりの中国の間接支配を受けた。 中国文化の影響は、衣食住、宗教、習俗や言語 に至る生活文化のすみずみまで色濃く残る。
独立してからは、10世紀より南進により領土を広げ、15世紀には中部ベトナムのチャンパ王国を征服、18世紀末にはカンボジア人が居住していたメコン・デルタを奪い、今日の領土を定めた。チャンパやカンボジアのようなインド文明型の諦観主義的な文化民族から見ると、ベトナム人は好戦的な民族であろう。
ベトナム史は、□□南進史であるといわれる。主な王朝は以下の通りである。
- リ(李)朝(1009-1225)
- チャン(陳)朝(1225-1400)
- レ(黎)朝(1428-1789)
- グエン(阮)朝(1802-1945)
《A》 北属
チュン(徴)姉妹は、ベトナムの□□神
チュン(徴)姉妹は、
紀元1世紀に中国の支配に抗したベトナムの□□神 である。姉の夫が漢人支配者の弾圧に抗したため処刑されたので、チュン姉妹は反乱に決起し、北部ベトナムから広東省にかけ65城を落とし、姉は王位につくが、2
年後に捕らえられ、処刑された。チュン姉妹の名は、中国に最初に勝利した民族英雄として、今も至るところで□□神としてまつられている。
《A》 守護
旧フランス領インドシナは、△△△三国とよばれる
1883年にベトナムは、中国への足場を狙っていたフランスの植民地にされた。それ以降1945年までの60年間、「東洋の真珠」として、フランスに奉仕のみする道を歩まねばならなかった。ベトナム、カンボジア、ラオス
は、まとめて△△△三国とよばれた。
《A》 ベカラ
インドシナ戦争は、対仏、対米独立戦争
インドシナ戦争は、第一次インドシナ戦争と第二次インドシナ戦争にわかれる。第一次インドシナ戦争は、ベカラ三国による対フランス□□戦争である。
第二次インドシナ戦争は、普通ベトナム戦争とよばれる。これは、アメリカの軍事介入に抵抗した民族解放戦争である。
《A》独立
第一次インドシナ戦争( 1946-1954 )
1945年それまでベトナムを支配していた日本が敗戦すると、△△チミン(胡志明)はベトナムの独立を宣言した。しかしフランスはこの独立を認めず、翌
1946年にベトナムに進駐した。ここにインドシナ戦争が始まった。
1954年北ベトナム軍は、ラオス国境に近いディエンビエンフーの盆地に布陣したフランス軍に山岳から銃砲火を浴びせ、フランス軍を撃滅、大勝した。フランス軍12000のうち4000人が戦死したという。これにより、フランスの植民地支配は終わり、17度線を境に南北ベトナムが誕生した。
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ディエンビエンフーの戦い ディエンビエンフー【画像】
《A》 ホー
ホー・チミンは、ベトナム第一の民族英雄
ホー・チミン(Ho
Chi Minh、胡志明)はベトナム□□党の創立者で、ベトナム共和国の初代の国家首席である。ベトナム第一の民族英雄である。清貧でいばらず、「
ホーおじさん」と国民から親しまれた 。
《A》 共産
ベトナム戦争( 1960-1975 )
1960年 南ベトナム解放民族戦線が結成され、北ベトナムと南ベトナムの間にベトナム戦争が起こった。1963年南ベトナムに軍部クーデターが起こると、南ベトナムを反共の砦としていた
アメリカは軍事介入をし、翌年には北ベトナムにも爆撃を開始 した。
アメリカ軍・南ベトナム軍は50万人の兵を投入したにもかかわらず敗戦を重ね、1975年南ベトナム政府は崩壊し、翌1976年ベトナム社会主義共和国が生まれた。アメリカは
△△△(将棋倒し)理論 に従い、南ベトナムが共産化すれば、カンボジア、タイをはじめインドシナ半島、東南アジアの各国が将棋倒しに共産化すると考えたのだが
大きな間違い であった。
ベトナム人の対中国観、越中関係史を知悉していれば、△△△理論など通用しえないことは、自明の理であった。地域研究の必要性がさけばれるユエンである。
ベトナム戦争によるベトナム人死者は
200万人を数える。その後のカンボジアの悲劇も、アメリカのベトナム戦争介入にその原因がある。
《A》 ドミノ
カンボジア、ラオスへの進出
1979年カンボジアにヘン・サムリン政権が成立してからは、ベトナムはカンボジア、△△△に軍隊を派遣し、この地域の指導的役割を果たすようになっている。
《A》ラオス
朝鮮とベトナムは、常に中国の脅威を
中国の近隣諸国は、隋(581-618)、唐(618-907)のような大陸を統一する大帝国ができると、大きな畏怖と衝撃を受ける。逆に四分五裂の状態が続くと膨脹政策をとることができないので、近隣諸国にとって、中国が分裂状態の方が望ましいのは、今も変わらない。
日本でも 、中国からの脅威を感じ、聖徳太子の摂政政治(593)から大化の改新(645) に至る過程で、これまでの部族国家をにわかづくりの統一国家に仕立て上げた。統一日本の歴史はこの時期に始まった。
日本と似た環境のフィリピンは、わずかに中国から遠かったために、脅威を感じず、スペインに支配されるまでのんびりと部族国家(村=国)のままであった。漢民族は、海が苦手で、台湾へ最初に進出したのも、中国ではなく、オランダであった。しかもそれは中国5000年の歴史から見れば、つい最近の1624年のことであった。
中国と地続きの朝鮮半島の混乱はもっと深刻であった。隋の侵攻を受け内乱が続いた。やがて新羅が唐の支援を受け、百済を、次いで高句麗を滅ぼし、半島を統一した(676)。唐の時代には、668年に北朝鮮のピョンヤンが唐の直轄領となり、安東都護府が置かれた。以後朝鮮半島は20世紀初頭に至るまで中国の儒教体制の優等生となり、ミニ中国国家となった。
(都護府とは、唐が設けた中国辺境異民族の統治機関である。都護(長官)のもとに、地元の王を地方官に任じて、間接的な支配をおこなった)
ベトナムは以前から中国の支配を受けていたが、中国の国力が弱いと一揆、反乱を起こし反発していた。しかし、隋の出現と同時にきびしい攻撃にさらされた。唐の時代には、679年にハノイが直轄領となり、679年
□□都護府 が置かれた。唐がほろび宋(960-1279)の時代になると、ベトナムは宋帝国に恭順の姿を示すことにより、リ王朝を1009年におこし独立した。
中国は、ベトナムと朝鮮を自国の内庭と考えていたようだ。
注)朝鮮:朝鮮とは、日本語では、朝鮮半島の二国家、北朝鮮と韓国をあわせてさす言葉である。また、分裂前のKoreaをさす言葉である。したがって、朝鮮語とは、韓国語+北朝鮮語のことである。)
《A》 安南
朝鮮とベトナムは、ミニ中国
朝鮮とベトナムは、その歴史的運命が酷似している。たとえば、 漢字圏に属し、 儒教国家で、食事には箸を使う 。今に至るも朝鮮、ベトナムの姓名は中国式である。両国は、中国と地続きの半島にあったため、中国の影響をもろに受け、中国式国家体制をとり、中国式知識人階級をもった。ベトナムは直接間接に中国の支配を2000年間受け、朝鮮は2000年間に500回の侵略
を受けている。
また中国式官僚体制は、内治には強いが、外圧には弱い という弱点があったため、朝鮮の李朝は日本に簡単に侵略され、ベトナムの△△△朝はあっさりとフランスの植民地にされてしまった。
儒教史観の根本は、「万古不易」 (=歴史の法則は変わらない)ということである。このため、新しいものや、外の変化を認めようとせず、外敵に弱い。また最大の徳目は、「親に孝」であるが、親は自分の親が生きている限り、従わねばならず、新しいことができない。なぜならば、年寄りは、保守的で、変化を好まず、新しいものを認めたがらないからである。
《A》 グエン
朝鮮:ベトナム=日本:フィリピン
あるものの実体を知るためには、まずそれと似たものとの比較をおこなうのが常道である。しかし、あまたの「韓国論」には、ベトナムとの対照研究をおこなったものがまずない。また「日本論」においても、日本と同様の環境にあるフィリピンとの比較をおこなったものはまずない。
韓国と日本を、比較する場合には、次の図式も忘れてはならないだろう。 日本が儒教国家でないのは、イギリスがラテン文明国家でないのと同様である。朝鮮民族は、儒教の観点から、中国を父、日本を□□が足りない弟と見がちだが、間違いである。日本は、儒教国家ではない。朝鮮民族の日本観の間違いの根本はここにある。
中国文明:朝鮮:日本=ラテン文明:フランス:イギリス
という図式がなりたつであろう。
《A》 礼節
ベトナム華僑は、□□系
かつての南ベトナムには、50万人の
ベトナム系華人が居住していたが、ベトナムの社会主義化により、迫害を受け、国外に逃れた
。しかし、現在では、かなりの者が帰ってきているという。華僑の民族グループは、福建、潮州、客家(はっか)、広東に分けられる。このうちベトナム華人は□□出身である。中国の□□は、ベトナムのすぐ北にある。香港も広東圏の一部である。
《A》 広東
□□仲麻呂は安南節度使
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」と詠んだ
□□仲麻呂(701-770)【画像】は、奈良時代の遣唐留学生で、科挙の試験に合格し、玄宗皇帝につかえ、詩人の李白などとも交友があった。
仲麻呂は 安南節度使としてハノイに二度にわたり 駐在した。(節度使とは、唐の時代の辺境要地の軍団の長のことをいう。辺境諸州の民政、財政を司ったため、私兵を養い強大な力を蓄えたものもいる)
《A》 阿部
村が集団としての最高の単位
ベトナムでは村が集団としての最高の単位であり、ひとびとは先祖以来、村で生活し、守りあってきた。村は 「皇帝の法令も村の□□でとまる」ほど強い自治権を持ち、中央政府とタテの関係でなく、ヨコの関係にあり、いわば国の中の国として、強い自治権を持ち、自立的排他的な共同体をつくっていた。
《A》 垣根
バンタン(文紳)は、村の実権の保持者
バンタン(文紳)は、下位の科挙の試験の合格者で、 村の実権を握っていた。19世紀末の暴動の指導者の多くはバンタンであった。バンタンは、
朝鮮のヤンパン(両班)と同様□□人階級で、社会的役割は似たところがある。
A》 読書
□□は、ベトナムの旧称
□□はベトナムの旧称で、唐が植民地ベトナムにおいた□□都護府の名に由来する。中国は19世紀までベトナムを□□とよんでいた。またフランス植民地時代には、ベトナム北部がトンキン、中部がアンナン、南部がコーチシナとよばれた。「
南を安んずる 」といった意味があるので、ベトナム人はこのまず現在は用いられない。
《A》 安南
ベトナム人とカンボジア人・ラオス人の違いは、文明のちがいから
ベトナム人は、隣国のカンボジア人やラオス人と比べると、器用あるいは小ずるいといわれる。ベトナム人は、のんびり屋で生産性の低い仕事をやっているカンボジア人やラオス人に対し、強い優越感情をあらわす。旧宗主国のフランス人もベトナム人を警察官や官吏として重用した。
ベトナム人とカンボジア人やラオス人の気質の違いは、□□の型と環境が違うからであって、先天的なものではない。カンボジア人やラオス人は
インド文明を受容してきており、そのため目先のことにこだわらず諦観的・瞑想的である。また戦闘や人との競争を好まない 。
しかし現実を重んずる中国文明を2000年も受容してきたベトナム人は、頭の回転が早く、すばしこく、商才があり、手先が器用で、機械の修理がたくみであったり、働き者であったりするような資質を自然につちかうようになった。これは、中国文明の影響を受けた日本や朝鮮においても同様である。
《A》 文明
左: 路上の靴修繕屋。自動車の古タイヤで靴底を再生していました。右:街角の路上自転車修理店。
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若い主人
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△△△△は、ベトナム女性の民族服
△△・△△(上着+長い)【画像】はベトナム女性の外出着である。中国風の立てえり、前開きの丈の長い上着とゆったりした白無地のスラックスからなる。外出時にはこれに麦わらの笠型の日除け帽をかぶる。竹のようなしなやかなベトナム女性にはこれがよく似合う。
中国の伝統をベトナムの風土に同化させた好例 である。
A》 アオザイ
△△△△とは、ベトナム製の漢字
△△△△【画像】とはベトナム製の漢字で、14世紀より伝わる。18-19世紀の文学作品に△△△△によるものが多い。20世紀に入ると、現行のローマ字表記法クォックグー(国語)に変わられた。韓国、北朝鮮でも漢字廃止路線を走っている。
《A》 チュノム
「失われた王国」チャンパ
インドネシア系に族するチャム族の国
チャンパは、
2世紀以来ベトナム中部以南 の海岸沿いを版図とする典型的な△△△型の国家を営んでいた。チャンパは東南アジアにおける△△△文化圏の東方フロンティアであった。
しかし10世紀以降中国から独立したベトナムに執拗に圧迫され、その南進政策のために次第に領土を奪われ、ついに 17世紀の末に滅亡 、民族は四散し「失われた王国」となった。現在では、中部ベトナム各地に残るチャム碑銘や美術建築がわずかに当時の王国の栄光を伝えるのみである。
チャム族の人口は現在は13万人を数えるのみで、ベトナム(2万人)、カンボジア(11万人)で細々と暮らしている。現在ベトナム中部のチャム族は仏教徒で、ベトナム南部およびカンボジアのチャム族はイスラム教徒である。もともとチャム族は、海の方から北上して来た民族である。
A》 インド
チャム人仏哲は、林邑楽を日本に紹介
チャム人
仏哲は△△△△の音楽を日本に伝えたことで知られる。インド人のバラモン僧とその弟子の仏哲は奈良を訪れ、聖武天皇や仏教僧から歓待を受け、752年の東大寺の大仏開眼(かいげん)の法要にも列席した。
大仏開眼とは、大仏ができあがった時の魂を入れる儀式のことをいう。仏哲が日本に伝えた音楽は今でも雅楽「林邑楽 (りんゆうがく)」として残っている。林邑とはチャンパの中国名である。
《A》 チャンパ
愛玩用の小型の鶏△△△は、チャンパから
△△△【画像】は、愛玩用の小型の鶏である。江戸時代の初期にチャンパから渡来したためにこの名がついた。世界的に愛好者が多く、各国にバンタムクラブ(Bantam
clubがある。
《A》 チャボ
△△△△△は、魚醤
△△△△△は、小魚に塩やニンニクなどを加えて、瓶の中で重しでつぶし、発酵させた魚醤である。匂いは独特のものがある。米飯とニョクマムがベトナム農民の最も簡素な常食である。
魚醤は東南アジアを代表する調味料で、カンボジアではタク・トレイ、タイではナム・プラー、フィリピンではパティスとよばれる。秋田県の「しょっつる(塩汁、のなまったもの)」も魚醤
である。
《A》 ニョクマム
漢字の伝来は紀元前2世紀
中国における漢字の誕生は紀元前13世紀である。
- ベトナムには紀元前2世紀以降に入った。
- 朝鮮には紀元前3世紀以降に伝来した。
- 日本に入ったのは4世紀後半である。
ベトナム、朝鮮がいかに古くから中国の影響下にあったが、ここからもおしはかられる。
cf.
司馬遼太郎『人間の集団について―ベトナムから考える』中公文庫
近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘 』文春文庫
『美味しんぼ』第66巻 ベトナムの卵(前編・後編):海老芋 ホビロン フォー カー・コム(ニョクマムの原料) サイゴン春巻き タマリンド マムネム
ベトナムを歩く アルバム
ホーチミン中央市場付近
中央市場。果物が豊富
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自転車屋さん。交通事故の現場
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農村風景
戦争
本好きなベトナム人戦争
左:本の装丁屋さん。右:ハノイ空港のレストランにも本売りの少年が
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おしん
シクロ。NHKドラマ「おしん」のシールが横に貼ってありました。
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キリスト教
キリスト教会
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郵便局
中央郵便局
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オートバイ
映画館横のオートバイの駐車場
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カオダイ教
水中劇
紙幣はすべてホーチミン
簡易給油所
黒タイの一家
下の印刷:[カーソルで範囲を選択]―[ファイルメニュー]―[印刷]―[選択した部分]
ベトナムを歩く 問題
- ベトナムの首都は△△△である。
- ベトナム史は、□□南進史といわれる。
- ベトナムは約1000年間□□の属国であった。
- ベトナムはインドシナ半島の国々の中で唯一□□文化圏に属する。
- ハノイのある△△△(紅河)デルタは、ベトナム民族の発展の舞台である。
- ハノイはベトナムの首都で、漢字で「河内」と記されるように、△△△川とその支流に囲まれた河の内側にある。
- ベトナム中部の狭長な海岸平野に、2世紀から17世紀まで存在したチャム人の国家を△△△△という。
- チャム族の国チャンパは、典型的な△△△型の国家を営んでいた。
- △△△△はベトナム女性の外出着である。竹のようなしなやかなベトナム女性にはこれがよく似合う。中国の伝統をベトナムの風土に同化させた好例である。
- □□仲麻呂は
安南節度使としてハノイに二度にわたり 駐在した。
- △△△△△はベトナム共産党の創立者で、ベトナム共和国の初代の国家首席である。
- アメリカは △△△(将棋倒し)理論に従い、ベトナム戦争に介入した。
- ベトナムでは村は「皇帝の法令も村の□□でとまる」ほど強い自治権をもっていた。
- ベトナムの海岸線は、△字型にのびている。
- ベトナム最大の都市は、旧称サイゴン、現在名△△△△△である。
- ホーチミン市は△△△デルタにある。
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