沖縄の京都、読谷を歩く  1

 桑原政則   読谷村のページ   
まえがき (このページ下)

地図【読谷は那覇から30キロ、車で1時間の所です。】 8割の完成度でアップロードしており、常に加筆再構成中です。
メール→桑原政則 kumaken@tiu.ac.jp

沖縄の京都 読谷村を歩く 2   沖縄の京都 読谷を歩く 目次


まえがき (#000, 2003年8月)

日本は46都道府県と沖縄からなります。旧琉球王国の沖縄は、「半異国」です。日本国は、沖縄に沖縄大使を派遣しています。

広く深い沖縄を、人口4万目前の読谷村(ヨミタンソン)を歩き回って、体感しようと思います。ヨミタンは、山、海、川、ダムがあり名所旧跡に富む景勝の地であり、環境文化村です。また、いまだに村の半分が軍用地です。読谷には沖縄の現代史が凝縮されています。

沖縄の古い都であり、伝統を守りつつ焼き物、花織り、紅イモなどの新しいモノを果敢に生み出しているところは京都に似ています。

読谷を歩くと、読谷ばかりでなく、沖縄、日本、アメリカ、そして世界が見えてきます。沖縄はsmall cosmosだからです。

読谷村は那覇の北30キロの沖縄本島西岸にあります。那覇バスターミナルから1時間20分です。28番、29番のバスが読谷行きです。(2003年8月5日、読谷村にて。)


読谷村概略史 (#001,2003年8月)

▼1420年頃、読谷村(ヨミタンソン)をはじめとする沖縄中部をおさめていた護佐丸(ごさまる)は、座喜味(ザキミ)城(@あとで写真)を築きました。その頃読谷村は、中国との貿易でさかえていました。中国は琉球王国を保護下においていましたが、あたえるばかりでうばうことはありませんでした。

▼1609年、薩摩が100隻の船に3000人の兵を乗せ、読谷から首都の首里へ進軍し、沖縄を属領にしました(「薩摩の琉球侵攻」)。力のおとろえた中国はなすすべもありませんでした。以後250年間以上も、琉球王国は薩摩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に呻吟(しんぎん)します。

▼1879年、琉球王国は、「国」から「県」へと格下げになり、日本化をしいられるようになります。これを琉球処分といいます。

▼1943年日本軍は読谷の地を接収し、滑走路3本の「沖縄北飛行場」(@あとで写真)を建設しました。読谷のすぐ南の嘉手納に北飛行場の補助飛行場として「沖縄中飛行場」を建設しました。

▼1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄北飛行場と中飛行場の占領を第1の目的にし、18万人の軍勢で読谷などに上陸しました。この地から住民の4人に1人が死亡するという沖縄戦が始まりました。読谷村は壊滅しました。

▼戦後、アメリカ軍は沖縄を占領し、読谷の飛行場を接収し、読谷全域を基地化しました。今でも村の半分は基地です。

▼沖縄が日本に復帰したのは、1972年のことでした。

▼変わらぬ基地、続く苦悩のなかで、読谷は沖縄の京都であり続けようとしています。

ここには誇りがあります。誇るべき歴史、文化、風俗、習慣があります。



今も残る旧陸軍の掩体壕(えんたいごう)。掩体壕(えんたいごう)とは、射撃がしやすいように射手などの行動を掩護(えんご)する壕(ごう)のことです。



怒濤のごとく押し寄せ上陸する米軍


読谷村内の米軍基地位置図 読谷村役場


村面積と米軍用地(統計) 読谷村役場


沖縄の米軍施設 沖縄県庁



読谷補助飛行場:沖縄県公文書館



「ヤマト政府のやることは昔も今も変わらない」 (#002,2003年8月)

▼「読谷を歩く」前に平和祈念公園を訪れました。(記念ではなく祈念です)。平和の礎(いしじ) には24万名が刻銘されています。今回は読谷村出身者の方々の墓前にお参りしました。

▼公園の中にある平和祈念資料館 は、沖縄戦の悲惨さをよく伝えています。戦争を知らない若い人たちも1時間後にはシューンとなって、でてきます。訪沖の際には一度はここを訪れるのが、沖縄人への礼儀です。


ひめゆり平和祈念資料館にもうかがいました。ひめゆり部隊で生き残ったおばあちゃんが、実体験を話してくれました。あまりの生々しさにその場の中学生たちの目はうるんでいました。

▼この資料館には、次のような記録の展示があります。
1945年2月14日、近衛首相は天皇に上奏しました。「敗戦は必死であり、国体護持のためすみやかに戦争を終結すべきであります。」これに対する天皇の意志は「もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思う。」でした。

▼また、沖縄軍の史上任務は「アメリカ軍に甚大な戦力消耗を共用し、戦意を挫折させ、沖縄に釘付けにすること」でした。そのために「軍官民の共生共死の一体化」が図られました。

▼牛島司令官は「最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」との言を残し、米軍に住民の保護を依頼交渉せず、住民をおいて先に自決してしまいました。そのため住民の降伏はゆるされず玉砕だけがとるべき道でした。

ヤマトの首脳は、本土を守るため、沖縄での戦争を1日でも長くのばそうとし、また住民を保護することなく逆に軍の道連れなるよう言い残して、自決してしまいました。この沖縄捨て石作戦のため、沖縄県民12万人が犠牲になりました。

このことは沖縄人の常識です。

【1947年、天皇は「アメリカが琉球を軍事占領してくれることを希望する」と述べました。】

前の天皇はついに沖縄を訪れることはありませんでした。

▼1975年皇太子夫妻(現天皇夫妻)が、3800名もの警備体制の中、ひめゆりの搭に花束をささげようとしたときに、地下壕から火炎瓶が投げつけられました。

▼1987年の国体では、知花昌一の日の丸焼き捨て決起がありました。

▼沖縄のおばーたちは、「ヤマト政府の沖縄にやることは昔も今も変わらない」と考えているようです。






平和の礎(いしじ)内の読谷村民の刻銘碑



平和の礎(いしじ)には、読谷村民の刻銘碑は全部で9体を数えます。黒丸が読谷村民のもの。


残波(ザンパ)岬は鳳(オオトリ)の頭 (#003,2003年8月7日)

▼残波岬は、沖縄有数の景勝地です。沖縄本島中部西岸のとがったところにあります。(残波岬の位置)。

▼この岬は海から岩がきりたっています。白いしぶきをあげ30メートルもの勇壮な断崖をかけのぼってきた荒波が岩の上に残るので、残波といわれるようになりました。磯釣りやダイビングのポイントでもあります。

▼今日は台風ですが、台風の時はホテルの客はなすすべがありません。インドアのイベントなどの雨の日対策がほしいところです。

那覇空港では 、200以上もの便が欠航したために、3万人以上が足止めになっています。空港にホテル、映画館、博物館、インターネット、コンビニ、仮眠所、スポーツクラブがほしいところです。



残波岬灯台
   
▼残波岬の近くには、2つのリゾートホテルがあります。この2つのホテルには、他市町村にはないシカケがほどこされています。

まず、土地は貸し地です。所有権はしっかり地元がにぎっています。ビーチもホテル専用のプライベートビーチではなく、誰でも利用できる無料パブリックビーチにしてあります。

残波ビーチは灯台の南にあります。無料です。

▼ホテルの従業員も地元優先です。売店では地元の産物の販売を義務づけています。タクシーも地元に限られています。ホテルが利用するクリーニング店では、障害者を雇用することになっています。
   
▼ホテルの汚水も海には流していません。2回の処理のあと、新しくつくった45ヘクタールの公園に散水しています。

▼地元優先、環境優先のリゾートづくりに尽力したのが、おさないころ「たことり少年」といわれたすもぐりの名人、山内徳信前村長でした。

〇山内徳信(トクシン)は、1974年38歳で読谷高校教師から村長になり、以後24年間村(ソン)のために尽力しました。

グーグルの検索では、山内徳信で約800件ものサイトが表示されました。

琉球政府初代行政主席の比嘉秀平(ヒガ シュウヘイ)、琉球政府公選主席の屋良朝苗(ヤラ チョウビョウ)は、読谷の出身です。山内徳信はそのような教師出身の政治家の系列に連なる人です。読谷が教育を大事にする風土からこれらの人は生まれました。


紅イモについて熱弁をふるう山内徳信

2001年3月6日ご自宅にて東京国際大学高橋明善教授等と3時間半にわたり、お話をうかがいました。

著書
山内徳信『憲法を実践する村―沖縄・読谷村長奮闘記』明石書店 、2001年

山内徳信 『叫び訴え続ける基地沖縄―主権在民の精神を盾に 読谷24年・村民ぐるみの闘い』那覇出版社 、1998 年

山内 徳信, 水島 朝穂『沖縄・読谷村の挑戦―米軍基地内に役場をつくった』 岩波ブックレット、1997年
   
沖縄残波(ざんぱ)岬ロイヤルホテルは、
地上13階で客室数501室あります。ホテルの目の前には、エメラルド色のビーチが広がり、東シナ海に沈む夕日はみものです。

▼ この日(8月6日)は台風前日なので、草花が白のシートでカバーされていました。珍しい光景です。

▼夏は満室です。台湾人が多く泊まっていますが、中国語の案内が不足しているようです。1階の浴室に行くのにユカタ姿ではだめなので、これも不便です。

ホテル日航アリビラは、国際レベルのホテルです。 外観は、スペイン赤瓦屋根にホワイトの壁です。客室のバルコニーからはオーシャンビューが楽しめます。Alivilaとは、alivio+vilaの造語で、「くつろぎの別荘」という意味です。
  この日は台風前日なので、草花は黒のシートでカバーされていました。


沖縄残波(ざんぱ)岬ロイヤルホテル


ホテル日航アリビラ

残波ゴルフクラブは、1996年沖縄県ではじめて無農薬宣言をしたゴルフ場です。このゴルフ場は、地主の共同出資でつくられたもので、地元の人を優先雇用しています。
(@あとで写真)

レジャー用の総合公園残波岬いこいの広場は、45万平方メートルもあります。巨大シーサー「残波大獅子」がランドマークです。全高7メートルあります。

▼明への進貢船の実物大の模型もあります。1372年読谷の長浜港から読谷の泰期(たいき)が明へ旅立ちました。中国の文物摂取のためでした。この進貢貿易のおかげで琉球は発展しました。何回か泰期が使いした船が「泰期(たいき)」号です。

▼毎年15万人をあつめる読谷まつりのハイライトは、100人以上が引く「泰期」号です。





残波岬いこいの広場残波大獅子

進貢船「秦期」号。1372年当時の3分の1の大きさ

▼沖縄には環境を重視する風水思想が生きています。読谷村の地形は、鳳(オオトリ)に似ています。鳳(オオトリ)の頭にあたるのが、残波岬です。

▼鳳(オオトリ)とは、中国で天子が誕生するときに現れるとされた想像上の霊鳥です。俗にはフェニックス(phoenix)のことです。

▼飛び立とうとしている鳳の向く方向は、かつて読谷に繁栄をもたらしてくれた東シナ海の彼方です。ヤマトではありません。

▼数年前にお会いした読谷中学の校長先生は「私の先祖は中国人です」と胸を張っておっしゃっていました。中国、台湾とつながりがあることが誇りであるようです。



http://www.vill.yomitan.okinawa.jp/kakuka/kikaku/
kaku-kikaku3.html

▼右は、30メートル下の海面から白波が灯台めがけて吹き上げているところです。レンズが波しぶきでぬれた状態の写真です。ファインダが見えないので、めっちゃどりした中の1枚です。

▼かつては90トンもの岩を吹き上げたこともあります。

▼右の写真をとるためには、愛機Olympus Camedia C-730 Ultra Zoomが海水ふぶきのために故障してもしかたがない覚悟でした。

▼私の友人は、車のドアを開けた瞬間、突風に運転手席側のドアを5メートルも吹き飛ばされてしまいました。思わず発したことばは「マンガだよ。これは」でした。ウチナーンチュ(沖縄人)は、台風時の車のドアの開け方を知っています。

▼台風時には、パチンコ屋、飲み屋さんが満杯となります。

台風10号下の残波岬 (2003年8月7日午後2時)

1990年10月6日、台風21号は94トンの岩を動かしました。

▼残波岬へ行く途中のサトウキビは、すべてなぎ倒されていました。一度倒れたらもう立ち上がれないそうです。年々土地がやせてきて、甘味も落ちてきています。サトウキビは国が買い上げることになっています。


▼かつては泡盛といえば、久米仙(クメセン)でした。今は読谷の残波が人気ナンバーワンです。口当たりがよく女性好みの味です。

▼レストラン琉花では、300円で残波が飲み放題でした。オリオンビールで舌をしめらせてから、3人で2本残波をいただきました。

▼この日8月6日は台風前夜なので、お店は閑散としていました。翌日の台風の日には食堂はどこもしまっていました。しかし、台風の晩には飲み屋さんはどこも満杯となります。


ファーストネームは音読み (#004,2003年8月)

▼読谷村出身の政治家
比嘉秀平(ヒガ シュウヘイ)
屋良朝苗(ヤラ チョウビョウ)
山内徳信(ヤマウチトクシン)
の名(ファーストネーム)は、シュウヘイ、チョウビョウ、トクシンというふうに音読みをします。中国の影響です。

▼ヤマトでは、偉くならないとファーストネームは音読みになりません。松本キヨハルが松本清張(セイチョウ)に、佐藤ヒデサクが佐藤栄作(エイサク) になるには、何十年もかかりました。 
▼こんな苦労をしなくてもいいようにと、私はタイ生まれの長男に公、次男には雄という音読みの名前をあげました。タイ語は1音節語なので、短くコー、ユーとしました。公も雄もふつう訓読みしない文字です。

▼二人とももう16年もアメリカに住んでいます。コー、ユーと短い名前なので、覚えられやすくて重宝しています。とくにユーはYouと同じ発音ですので、一度で覚えてくれます。ある時サッカーのコーチが"Yu, come back.."とさけんだら、数名がもどってきてしまいました。それ以来、他の学生と区別するときは、「クーン」とよばれます。大君(=徳川将軍)のことをtycoon(タイクーン)といいますが、そのクーンです。

▼2002年11月、読谷の方から突然電話がかかってきました。○○玄誠(ゲンセイ)という名前から推して、その筋らしい容貌を想像しましたが、はるばる読谷(ヨミタン)でお会いしてみるとひょうひょうとたやさしい方でした。

▼沖縄は、ヤマトとちがうところがいろいろあります。


比嘉秀平(1901年〜1956年)は、貧しい農家の家に生まれ、9歳のときに事故で右腕を失いました。教員を経て1952年に琉球政府行政首席に就任しました。軍用地問題で苦悩し、島ぐるみ闘争の最中に急逝(きゅうせい)しました。
(@あとで銅像の写真)

屋良朝苗(1902年〜1997年)は、高校、中学で教壇に立ったあと1968年琉球政府公選主席になり、1972年から 76年まで沖縄県知事をつとめました。


読谷村文化センター (#005,2003年8月)

▼沖縄独特の赤瓦を配した読谷村文化センターを訪問しました。読谷村役場に隣接しています。13000平方メートルの敷地に4階建てで、総工費30億はかかっていると思われます。700席以上の収容の鳳(おおとり)ホールもあります。

▼芸能文化村らしい建物です。(あとで追加)






読谷村文化センター


▼教育委員会の照屋さんと与那覇さんにお話をうかがいました。おふたりとも沖縄版のアロハシャツ、かりゆしウエアで仕事をなさっていました。2000年の沖縄サミットでも各国首脳が着用しました。

▼ウチナーンチュ(沖縄人)は、蒸し暑い夏に背広にネクタイでは、心も体もしめつけられて仕事などできない、といいます。

▼「かりゆし(嘉由)」とは、めでたいことを意味します。その昔、離島での旅が平穏無事に終わりますようにとの願いがこめてとなえられました。今でも「かりー」といって乾杯をすることがあります。


かりゆしウエアの照屋さんと与那覇さん


かりゆしウエアでくつろぐクリントン大統領ら。
名護の万国津梁館にて。 2000年沖縄サミット

▼沖縄では、特有の漢字があり、また特有の読み方をします。館長の照屋さんの下の名前を読める人はまずいないでしょう。

▼2000年読谷村文化センターの鳳(おおとり)ホールで創作歌舞劇「大北」がもよおされました。「うふにし」とよみます。大北(うふにし)とは、その昔中山国(チュウザンコク)の最北にある読谷のことをいいました。


▼下は「ヒジャバシ テント工業」とよみます。比謝川河口にあるお店です。


比謝矼(ひじゃばし)テント工業


【シゲトシ】


大北(うふにし)

   
▼与那覇さんの名刺です。

▼読谷まつりは15万人をあつめるお祭りです。役場の総務課が中心となり、村民が一丸となって1年をかけて準備します。教育委員会のみなさまもこのようにして、読谷の地域おこしと教育に尽力しています。

(名刺の掲載をおゆるしくださったお二人に感謝します。)

お食事処「おいシーサー」 (#006,2003年8月)

沖縄のシンボルはシーサーです。
お食事処「おいシーサー」は、沖縄にぴったりの名前です。


「おいしい?」「おいシーサー」
   
「居食」?なんてよむのでしょう。
   

読谷の旧名は読谷山(ユンタンザ)でした。

沖縄風弁当は、「島弁当」といいます。

自分の部落や村や沖縄のことをシマといいます。




「555」でなぜ「ファイズ」?

「とぅぐち小」です。「小」は「グー」とよみます。名詞語尾につける愛称です。かわいい表現になります。
   
   

秋吉久美子推薦の民家を改造したイタリア料理店です。

BGMにはジャズが流れ、リラックスして食事ができます。

国道58号の伊良皆(イラミナ)交差点から残波岬向けにしばらく走ると右手にあります。


「目ん玉」のことです。

花織そば。「花織」は「はなうい」とよみます。

 


 「太陽」です。


「友」で「」。「小」は「グー」。
   
「髪床(かみどこ)」という言葉がまだ生きていました。

きろろの玉城千春のご両親経営の「キンパリ」です。若いご両親です。「きろろ」とは、読谷語ではありません。読谷村の姉妹都市北海道十勝支庁中川郡池田町へ派遣されたとき耳にしたアイヌ語です。

」。漢字では「大木」と書きます。トリイ ステーションの前にあり、米軍高級将校、軍属が目立ちます。「うふっちゅ」とは、大人(たいじん)のことです。
 
「なぐりぃ なぐりぃ」  

昼まで、いたい人もいます。
   
最後は酒、さかなの店「ん」です。

【「もしもし、ん、ですか?」
「はい、ん、です。」】

このようにユニークな店名は、読谷の風土が豊かであり、人々に自信と誇りがあるからこそ生まれたのです。偶然ではありません。


シーサーは沖縄人の顔   (#007,2003年8月)

▼沖縄観光のシンボル、シーサー(獅子)は魔よけです。屋根の上、建物の玄関口、村落の入り口などに鎮座(ちんざ)まします。

悪魔を追い払う責任があるので、怖い顔をしています。獅子の顔であるはずです。

▼しかし、よく見ると、シーサーはウチナーンチュ(沖縄人)の顔です。マユが濃く、彫りが深く、いかめしい目をしています。しかし、どことなく愛嬌とやさしさが感じられます。

いかつい顔のウチナーンチュ(沖縄人)に話しかけてみてください。とろけるようなシーサーのエミがかえってきます。

▼(起源などを追加)


日本一の大きさを誇る読谷の残波(ザンパ)大獅子
 


ホテルのキードロップにつかわれているシーサー


ループタイにもシーサーが

▼システムエンジニアの幸喜(コウキ、苗字です)さんは、シーサー顔です。先祖は福建省の陳姓だとのことです。読谷から30キロ下の那覇まで通勤しています。そのカンバセからは、とうてい、猛烈サラリーマンには見えません。

▼アワモリ残波をきこしめしたところで、幸喜(コウキ)さんにお願いしてシーサー顔を演じていただきました。同窓の方々に幸喜(コウキ)さんのシーサー顔をユーモア解説していただきました。

▼眉毛が濃いです。濃い眉毛は、日光から目を守る傘の役目をしています。

▼目が引っ込んでいます。これも強烈な直射日光からおのれを守るためです。

▼鼻が高いです。いやしのシマ沖縄に特に多いマイナスイオンをしっかり吸収するためです。

▼色が黒いです。泡盛を飲んでいても、飲んでないふりをするためです。

▼毛むくじゃらです。蚊が近寄れないようにとの防衛策からです。

▼耳は、カデナ耳といいます。嘉手納基地からの爆音に強い耳です。

▼シーサーはアジアの遠いところから中国を経て、沖縄に到来したそうですが、時を経て幸喜(コウキ)さんなどのウチナーンチュ(沖縄人)をモデルにし始めたようです。




」にて
この日は旧盆ということもあって、古堅小学校の42歳の同窓生20余名が集まりました。(2003年8月11日)

沖縄シーサー図鑑いろいろな表情のシーサー

シーサー探検隊シーサーの由来


〇〇ジンベイザメの都屋(トヤ)港 (#008,2003年8月) (#,2004年月日)


▼海を見れば、海ばかりでなく陸地の環境保全の状態がわかります。海人は、いやでも環境保護論者になってしまいます。

【沖縄は、海のクニです。海にもぐるウチナーンチュ(沖縄人)がふえればふえるほど、失われゆく青い海白い砂浜の実態がわかり、ビジネス経済の面からも、対策を施さないと沖縄の将来はないことが実感されるでしょう。読谷の海、陸の保存に熱心な山内前村長は、タコトリ少年でした。】

都屋港は1993年沖振法の補助で整備されました。県下最大の定置網が設置されています。養殖漁業計画もあります。

漁業種類別漁獲量


▼ジンベイザメは、読谷近海を回遊しており、1年10頭あまりがとらえられます。5月、6月、7月にかかります。





都屋(トヤ)港で魚釣りをする人たち



都屋港沖。遠く雲の真下に象のオリが見えます。

都屋港の施設状況:表

 
▼魚類では最大で、20mのものも知られています。口は頭の先にあり、歯は小さく、小魚やプランクトンの群れをみつけては大口をあけて吸い込みます。カツオなどの群れがついていることが多く、大漁が期待されるので、漁師さんはジンベイザメを探し回ります。性質はおとなしく、人をおそうことはありません。

▼ ジンベイ(甚平)とは、男が夏着る家庭着です。

▼クジラのように大きくなるので、英名は、whale shark(クジラザメ) です。

▼都屋(とや)港沖10分のところの大きな生け簀(いけす)に「サンちゃん」と「ナナちゃん」がいました。なぜかサンちゃんが9mで、ナナちゃんが5mです。お二人に会いに1日200人もがダイビングに来るそうです。読谷観光振興の目玉になるでしょう。

沖縄本島のダイビングサービス:読谷には3カ所あります。

 

都屋港の鮮魚直売店。とれたばかりの魚を売っています。



沖縄の魚は、赤、青、黄色の原色です。なれてくると、原色が舌をそそります。

この日8月11日は、台風直後で11人だけがエントリーしました。9mのサンちゃんがどでかい口をあけて近寄ってくると、上あごを両手で思い切り押し返します。しかし、ゆったりと引き返し際大きな人間ほどのしっぽを網につかまっているダイバーにぐいぐい押しつけます。


私の場合は、レギュレータが網にからまってしまい、一時動けませんでした。



沖縄観光の目玉、世界最大級の沖縄美(ちゅ)ら海水族館のよびもののジンベイザメの「オキちゃん」と「ナミちゃん」も、読谷出身です。1頭2000万円あまりで売買されます。「オキちゃん」と「ナミちゃん」は、同じウチナー(沖縄)なので、特別価格だったでしょう。



「オキちゃん」。沖縄美(ちゅ)ら海水族館にて



この下に「サンちゃん」と「ナナちゃん」が。



ダイビングログ

透明度(海中):3m。透視度(上から):3m。エントリー:10時17分。エグジット:10時54分。潜水時間:37分。スーツ:ウエット3mm。アルミタンク:始200mb、終80mb。サーフェスタイム:3分。水深:12m。安全停止:3m/3分。ダイバー:桑原政則。Date:2003/8/11

ジンベエザメと泳ごう!! 


読谷村に関する文献 (#009,2003年8月)

出版年逆順(新しいものが上)です。

【下の*印は、わずか62ページですが最良の読谷入門書です。450円です。対談ですので、よみやすく、おもしろいです。政府やアメリカ軍との虚々実々のかけひきを通して軍用地内に役場をたてた経過がリアルにえがかれています。】

  • 読谷村総務企画部企画分権推進課『読谷村村勢要覧』読谷村役場、2003年3月
    読谷村村勢要覧』1999、PDF版
  • 読谷村史編集委員会編『読谷村の戦跡めぐり』『読谷村史  第五巻資料編4「戦時記録」』読谷村役場、2003年3月

  • 読谷村史編集委員会編『読谷村史  第五巻資料編4「戦時記録」』上巻、読谷村役場、2002年3月。(Web公開版)。紹介:琉球新報

  • 読谷村史編集委員会編「読谷山村関係年表 」読谷村役場、2002年。(Web)

  • 高良倉吉(編)『沖縄県の地名』『日本歴史地名大系』平凡社、2002年、pp373-385

  • 高橋明善『沖縄の基地移設と地域振興』日本経済評論社、2001年、pp387-428

  • 山内徳信『憲法を実践する村―沖縄・読谷村長奮闘記』明石書店 、2001年

  • 下嶋哲朗『チビチリガマの集団自決―「神の国」の果てに』凱風社、2000年

  • 読谷村役場『新庁舎完成記念誌』読谷村役場、1998年

  • 山内徳信『叫び訴え続ける基地沖縄―主権在民の精神を盾に 読谷24年・村民ぐるみの闘い』那覇出版社、1998年

  • * 山内徳信, 水島朝穂『沖縄・読谷村の挑戦―米軍基地内に役場をつくった』 岩波ブックレット、1997年

  • 仲宋根京子『読谷ものがたり―沖縄のある一家』実践社、1996年

  • 知花昌一『焼きすてられた日の丸―基地の島・沖縄読谷から』社会批評社、1996年

  • 読谷村役場『激動 読谷村民戦後の歩み』読谷村役場、1993年。【読谷の昔と今を伝える写真集です。】



    沖縄全般についての参考文献
  • 琉球新報社『最新版 沖縄コンパクト事典』琉球新報社、2003年。【沖縄の旅への必携品です。11cmx18cmの辞書サイズです。458ページ】

  • 新崎盛暉他『観光コースでない沖縄―戦跡・基地・産業・文化』 高文研、1997年。【裏口から沖縄をみると日本、アメリカ、世界も見えてきます。】


読谷の電話帳 (#010,2003年8月)

村内施設電話番号一覧 読谷村役場

読谷の電話帳 Yahoo!電話帳

【何かと重宝な、Yahoo!電話帳は、Y!電話帳として、トップページの常用サイトに格納してあります。】

【多いもの:飲食店、公民館、保育園・幼稚園、民芸(織物・ガラス工芸・焼き物、宿泊施設福祉施設)、 キリスト教会、 
地域性のあるもの
:資料館・美術館、一流ホテル、
ほしいもの
:ライブカメラ、スポーツクラブ(サウナ、プール、ジム)、早稲田商店会のような有料ガイド、ガイドテープの貸し出し。道路名→ 護佐丸通り、赤犬子通り。自転車道:電動自転車の時代】


読谷の統計 (#011,2003年8月)

  • 市区町村別平均寿命 厚生労働省。Endキーを押せば沖縄県に一気にジャンプします。
    【読谷男性の平均寿命は77.3歳で、沖縄県53市町村中第32位です。第1位は大里村で、79.5歳です。読谷女性の平均寿命は85.5歳です。女性の寿命の第1位は豊見城村で89.2歳です。】
    【沖縄県全体では、男性が1995年の4位から2000年には26位に後退しました。平均寿命は77.22歳から77.64歳へと上昇しましたが、伸び率は最下位です。運動不足による肥満、食事の欧米化による脂肪摂取量の増加、外食の増加に夜若・中年層の死亡率の増加が原因です。平均寿命の地域差は、だんだんなくなってきています。】

  • 全国の村 人口ランキング
    【人口3.7万の読谷は、全国552村中第2位です。2003年5月】

  • 全国の村 面積ランキング
    【面積は第424位です。2003年5月】

  • 統計からみた読谷村の特徴 MC-統計
    【年少人口が多く、老年人口が少ないことがわかります。】

  • 読谷の統計 読谷村役場
    文化財にとんでいます。面積の半分が米軍用地です。】

  • 読谷の気象統計 気象庁沖縄気象台


沖縄県の統計


沖縄のパーティはアメリカに近い (#012,2003年8月)

▼ヤマトのキチキチ文化に対して、沖縄はユッタリ文化です。沖縄のパーティはヤマトより、アメリカに近くユッタリしています。時間スケールもアメリカより大きいです。

▼2003年8月11日、古堅(ふるげん)小学校卒で42歳組20余名が集まりました。開会は7時でした。幹事の「パソコンくらぶエダ」の江田さんのご紹介でご招待にあずかりました。

▼パーティでは、ヤマトのように、開会の辞はありません。テーゲー(大概)に集まり、テーゲーに飲みはじめます。

▼右が8時10分の写真です。開始後1時間以上経過で、出席者はまだ3人です。みなさん、地元ですので夕食をとってから、自分の都合にあわせてゆっくりといらっしゃいます。家族連れの方もいらっしゃいます。



8時10分、出席者はまだ3人。開会は7時。
左が幹事の江田さん。沖縄でもまれにみるユッタリ人で、同席者をいやしてくれます。パワーポイントにおさめた小学校時代のアルバムを披露していました。
   
▼ このような集いには、開会時刻より3,4時間の枠内でからだを運べばよろしいようです。アメリカと同様に、キッチリした閉会の式があるわけではないので、先に帰る人もいます。

▼11時頃やってきて、「もう帰るの?」という人もいます。11時半頃には、招いていない人も参加です。ストレスがたまりません。このようなテーゲー(大概)主義が、沖縄らしいゆとりを生む源泉になっています。

▼沖縄で時間がゆっくり流れるのは、制限時間がないからです。あの世とこの世は近いので、生きている間に決着をつける必要がありません。このような沖縄の時間をウチナー(沖縄)・タイムといいます。
【生活時間はユッタリですが、ビジネス時間はキッチリです。】

▼【沖縄一のアワモリ残波(ザンパ)のつぎ方は、まずアイスを入れます。次ぎに残波です。このあと、水をいれたり入れなかったりします。これを人がやってくれるので、どれほど濃いのかはわかりません。】


10時頃そろいました。寝ている子供もいます。
このあと、招いていない人も参加です。地元のディープなお話もおもしろおかしくうかがえるありがたい場です。
 
▼沖縄は、ヨコの関係が強いので、互いの地位など関係ありません。相手がエラくなっても関係は昔のままですから、同窓会は、ストレス発散のいい場です。

▼また、人間関係がさらに濃く厚くなります。農漁業関係者、経営者、医者も警察官も教師もお役人もいるので、いざというときは強力なネットワーク力を発揮することでしょう。

▼ウチナーンチュ(沖縄人)が地元で働きたがるのも、イヤシ、ストレス発散とネットワークがあるからです。

▼このあと、場を変えて朝4時まで宴は続きました。イタリアでスローフードがはやっているそうですが、ひそかに沖縄を習ったんでしょうか。
 

ヤチムン(焼き物)の里だけあって、器には凝っています。 「ぎ(大木)」にて。【@あとで写真入れ替え】


読谷の地名の読み方と郵便番号 (#013,2003年8月)

読谷の地名の読み方と郵便番号 郵便番号検索 ゆうびんねっと

【全国の地名の読み方は、郵便番号検索からできます。重宝します。】

沖縄県 中頭郡読谷村【なかがみぐんよみたんそん】
904-0303 : 伊良皆【いらみな】
904-0321 : 上地【うえち】
904-0328 : 宇座【うざ】
904-0316 : 大木【おおき】
904-0313 : 大湾【おおわん】
904-0302 : 喜名【きな】
904-0327 : 儀間【ぎま】
904-0301 : 座喜味【ざきみ】
904-0325 : 瀬名波【せなは】
904-0304 : 楚辺【そべ】
904-0323 : 高志保【たかしほ】
904-0315 : 渡具知【とぐち】
904-0326 : 渡慶次【とけし】
904-0305 : 都屋【とや】
904-0324 : 長浜【ながはま】
904-0322 : 波平【なみひら】
904-0311 : 比謝【ひじゃ】
904-0312 : 比謝矼【ひじゃばし】
904-0314 : 古堅【ふるげん】

904-0300 : 以上に掲載がない場合

難読地名:渡慶次【とけし】 、比謝【ひじゃ】 、比謝矼【ひじゃばし】


東京より多くの区がある読谷村 (#014,2003年8月)

▼沖縄では、

アザ(字)=区=部落=シマ=集落

です。下に実例を示します。山内徳信前村長の村長「離任のあいさつ」からです。出典は下です。

読谷村役場『新庁舎完成記念誌』読谷村役場、1998年、pp125-126

「字(アザ)、部落、区長、区民」という語句が頻用されています。

▼「…。その子供達や孫達が、自分のおじいちゃんおばあちゃんを大事にする、そういう心を作るために、私達は美化運動をし、条例を制定し、最後はそういう人を大事にする。…。それを見事に婦人会、各の皆さん方、老人クラブの皆さん方がいっしょになりましてがんばっていただいております。…。

▼  正にその代表的なところは、部落名を申し上げて失礼でございますが、いま座喜味の皆さん方は、空き地は5坪でも10坪でも全部花でうめるといって、区長さんその他関係者が頑張っていらっしゃる姿、まさにすごい姿であります。


▼この間建設大臣賞受賞の祝賀会がありましたが、公民館にいっぱい花が植えられておりますが、その花を上回る美しい表情をしておられる座喜味の区民をみたときに、これがほんとに21世紀の読谷の目指すもの、すばらしい実践をしていただいておりますということで、感謝を申し上げた次第でございます。」

▼ヤマトの大学に入った新入生が自己紹介の時、「私は沖縄読谷村とうところの楚辺部落の出身です。」とやりました。一座はシーンと静まりかえりました。

▼東京には17区しかありません。読谷村には23の行政区があり、それぞれ区長さんがいます。区長会もあります。

▼「シマ」は、「住まい」が語源らしく、時に応じて、アザ(字)、村をさします。シマ酒【@?@】といった場合は、沖縄全体をさします。

▼読谷村は合衆国のようです。各アザ(字)がアメリカの州のように高い独立性を維持し、切磋琢磨しています。


交番にも読谷語が (#015,2003年8月)

▼楚辺(そべ)の交番には、つぎのような交通安全を呼びかける標語が、三線(サンシン)の絵とともに、玄関上にかかれています。

「歌、三線や昔からぬ
     交通安全や、いちぬ世まりん
        うまんちゅぬ 命や宝

<歌や三線(サンシン)は、昔からの宝ですよ。
交通安全をいつの世までもね。
皆の衆、命は宝ですよ。>

【うまんちゅ(御万人)=庶民】


楚辺(そべ)の交番。まわりが花でいっぱいです。

▼ 下の交通安全人形のキジムナーも三線(サンシン)を引きながら、

「酒ぬりん  車むちゅなョー」

と呼びかけています。

ウチナーンチュ(沖縄人)だけに通じることばです。

【キジムナーは、ガジュマルの木にすむ木の精です。写真のように全身赤い肌の子供の姿をしています。】

<歌や三線(サンシン)は、昔からの宝ですよ。
交通安全をいつの世までもね。
皆の衆、命は宝ですよ。>
 
▼琉球三線(サンシン)音楽の開祖は、赤犬子(あかいんこ、アカヌク)です。犬ではなくて人間です。 赤犬子は読谷人です。楚辺で生まれました。

▼楚辺にお宮があります。旧暦9月20日にアカヌクー祭が開かれ、3月4日の三線(さんしん)の日には三線と舞踊が奉納されます。

▼楚辺の交番が郷土色豊かなのは、このような事情があるからです。


キジムナー
「酒ぬりん  車むちゅなョー」
<酒飲んだら、車うんてんするなよー」

赤犬子宮   

台風でいたんだ草花の手入れに余念がないかりゆしウエアの非番のおまわりさん